東藝術倶楽部瓦版 20180410:幕末の将軍後継者争いと大政奉還

 

おはようございます。ここ2、3日は涼しい日が続きます。冬物を仕舞い込むのをためらっていましたが、正解だったようです。ところで、明日からまた中国出張です。今回は上海経由で湖南省長沙で、16日に上海から戻ってくる予定です。長沙では、日中の有識者が集まり、世界経済、日中経済、イノベーションについて議論する会議が行われ、日本側代表は元・日銀総裁で現在はキヤノングローバル戦略研究所理事長の福井俊彦氏、中国側代表は国務院発展研究センター主任(閣僚級)の李偉氏です。これもまたハイレベルな会議で、テレビでコメンテーターとして活躍する人たちが参加しています。ということで、またしばらく瓦版も休刊させていただければと思います。

 

さて、前回の続きですが、13代将軍・家定は、正室として公家の鷹司政熙(たかつかさまさひろ)の娘・任子(あつこ、天親院有君)や一条忠良の娘・秀子(澄心院寿明君)を迎えましたがいずれも早世します。その後、薩摩・島津家から近衛忠熙の養女となった敬子(天璋院篤姫)を正室に迎えますが、彼女との間にも実子は生まれませんでした。このため、将軍在職中から後継者争いが生じ、家定の病状が悪化した安政4年(1857年)頃からそれが激化します。ちょうど今、NHKの大河ドラマ「西郷どん」の舞台となっている時代ですね。

 

家定の後継者候補として挙がったのが、井伊直弼ら南紀派が推薦する紀州藩主の徳川慶福(後の14代将軍・家茂)と、薩摩藩主・島津斉彬や御三家の水戸藩主・徳川斉昭ら一橋派が推す一橋慶喜(後の15代将軍・慶喜)です。慶喜は斉昭の七男として生まれましたが、家慶の意向により、弘化4年(1847年)に一橋家を継ぎます。結果的に、家定は慶福を将軍後嗣とすることを決め、安政5年(1858年)に35歳で亡くなりました。これにより、家慶の血筋は絶えることになります。

 

安政5年に14代将軍となった慶福は名を家茂と改めます。家茂の実父・徳川斉順(とくがわなりあき)は12代将軍・家慶の異母弟で、家定の従弟に当たります。血筋からいえば、実子のない家定に最も近かった存在ですので、譜代筆頭の井伊直弼ら南紀派が推すのは自然の流れでしょう。家茂が将軍に就いたのは13歳、その後見人となったのが田安徳川家5代当主の徳川慶頼(とくがわよしより)で、その後慶喜に代わります。文久2年(1862年)、幕府の公武合体によって孝明天皇の皇妹・和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)と結婚します。幕末の尊王攘夷の風が吹き荒れる中、慶応2年(1866年)、家茂は第2次長州征伐の途上、大坂で病に倒れ亡くなります。享年21歳の若さでした。

 

家茂の死によって15代将軍に就いたのが一橋慶喜です。江戸幕府最後の将軍であると同時に、日本史上最後の征夷大将軍となりました。慶喜は、元々は御三家水戸藩第9代藩主・徳川斉昭の7男として生まれました。その後、家慶の意向を受けて御三卿一橋家の世嗣となり一橋家を相続します。弘化4年(1847年)のことです。慶応2年の家茂の死によって、慶喜は将軍に就きますが、慶応3年(1867年)に明治天皇に政権を返上、いわゆる「大政奉還」を行って、260年余りに渡って続いてきた江戸幕府が終わりを告げることになりました。

 

大政奉還後、慶喜は新政府に恭順、隠居して田安徳川家から家達を養子に立て、徳川宗家が存続することになります。家達は一時駿府に移住するも、再び東京に移り住むことになりました。徳川宗家は公爵の称号を授けられ、戦後まで貴族院議長を務めることになります。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年4月10日 06:51に書いたブログ記事です。

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