東藝術倶楽部瓦版 20180418:徳川将軍家の石高は800万石?

 

おはようございます。一昨日夜遅くに中国上海から帰ってきました。2カ月連続で国際会議に参加するのは疲れますが、そう簡単に経験できることではなく、上司のお付とはいえメンバーの一人として参加できることに感謝したいと思っています。そうそう、先週日曜日の湖南省長沙から北京に向かう飛行機の中で、ボールペンを使って客室乗務員を羽交い絞めにした男がいた事件が発生しました。我々の乗ったのは上海行きだったので何の問題もなかったのですが、一緒に会議に参加していた国務院発展研究センターの友人がその飛行機に乗り合わせていました。幸いなことにケガ人などは出ず、犯人は拘束されましたが、午前中に北京に着くはずのところが、そのトラブルのせいで夜遅くになったようです。

 

さて、本日は「徳川将軍家の石高」について紹介したいと思います。太閤検地以降江戸時代を通じて、諸大名や旗本の規模を示す基準として、所領の面積ではなく「石高」が使われていたこと、1石が米150キログラムに相当することはすでに述べた通りです。石高には、米ばかりでなく、麦や大豆等の穀物、野菜・果物、綿などの農産物、加工食品や製塩などの工業製品も含まれていました。ですから、江戸時代、全国の石高は生産性の向上に伴って増えていきました。

 

太閤検地によって示された慶長3年(1598年)頃の全国の石高は1,850石であったした。それが江戸時代初めの慶長年間後期〔慶長9年(1604年)~慶長15年(1610年)〕には2,200万石、寛永10年(1633年)には2,250万石、正保・慶安年間(1644年~1652年)には2,400万石、元禄年間(1688年~1704年)には2,600万石、天保年間(1831年~1845年)には3,000万石になりました。

 

それでは、徳川将軍家の石高はいったいどのくらいだったのでしょうか? 豊臣政権時代、豊臣家の蔵入地が約220万石といわれており、全国の石高の約1割を占めていたことが分かります。そのときの家康の石高は約250万石と、豊臣家を上回っており、その力の大きさが分かります。ちなみに、三番目に大きかったのが毛利家で、分家を含め約200万石、続いて上杉家の約120万石、前田家の100万石弱でした。家康の250万石といっても、家康自身が直接支配できたのは100万石で、残りは配下の武将に分け与えられていました。

 

その後、関ヶ原の戦いに勝利した家康は西軍についた大名の領地を没収、或いは減封して東軍の大名に与えると同時に、自らの領地を増やします。家康の晩年には幕府直轄地が200万石となり、その後改易大名の領地を加えて、5代将軍・綱吉の時代には400万石、8代将軍・吉宗の頃には450万石を超えて最大の463万石に達したといわれています。

 

この幕府が直接支配していた直轄地を「天領」と呼んでいました。その領地は日本全国にわたり、大坂・京都・堺・長崎などの重要都市や伊豆・佐渡など資源の豊富な場所が多く含まれていました。内訳は関東では103万石、畿内68万石、東海道73万石、北陸28万石、東北37万石、中国41万石、四国・九州12万石など広く分布していました。こうした天領には、幕府から代官を派遣し、統治していました。こうした天領に、旗本領約300万石、その他大名に貸し付けてある領地と奉行支配地を加えて、大よそ800万石が徳川家の石高とされています。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年4月18日 09:11に書いたブログ記事です。

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