東藝術倶楽部瓦版 20180426:御三家、御三卿以外の親藩は幕政に関与してはいなかった?

 

おはようございます。清々しい朝を迎えた今日の東京都心ですが、朝からパソコンの調子が非常に悪く、まともに機能しません。何か悪い電磁波の影響があるのでしょうか? ウイルスに感染している可能性は低いと思いますが、一度精密にチェックする必要があるのかもしれません。

 

さて、本日は御三家、御三卿以外の「親藩」について紹介していきたいと思います。親藩の中でも、特に「徳川姓」を許されたのが御三家、御三卿でしたが、このほかにも「駿河徳川家(駿府藩)」、「甲府徳川家(甲府藩)」、「館林徳川家(館林藩)」がありました。これらは、将軍家の次子以降として親藩に立てられたものの、宗家継承や後嗣断絶のため、一時的なものになってしまいました。

 

駿河徳川家は、藩主は秀忠の三男・忠長で、駿河、遠江、甲斐の3国に跨る55万石を有していましたが、忠長が不行跡であったために家光によって改易され、忠長自身も自刃したために1代で断絶となりました。甲府徳川家は、初代藩主は家光の三男・綱重(家綱の弟)で、石高は25万石でした。綱重の子・綱豊が6代将軍「家宣」であることは、すでに説明した通りです。綱豊が将軍の世子となったことで、甲府徳川家は2代で断絶となりました。そして、館林徳川家は、家光の四男・綱吉が上野館林藩の藩主として25万石を賜ったことに始まりますが、綱吉が兄・家綱の養嗣子となり、その子・徳松が藩主となるものの、綱吉が5代将軍となったために徳松は綱吉の世子と定められた(のち夭折)ことから、館林領は幕府直轄領となって館林徳川家は2代で断絶となりました。

 

御三家や御三卿に次ぐ一門とされているのが、家康の次男である結城秀康を祖とする「越前松平家」、秀忠の四男である保科正之を祖とする「会津松平家」、綱重の次男である松平清武を祖とする「越智松平家」です。越前松平家の拠点の領地は福井藩(福井松平家)で、当初の67万石から廃藩時には32万石と紆余曲折の藩政が続きました。会津松平家の拠点の領地は、こちらもいろいろとありましたが、最終的には陸奥国会津藩23万石に落ち着いています。越智松平家は、当初は上野館林藩でしたが、後に石見浜田藩6万1千石に落ち着いています。これら一門は家格や官位などでは優遇されていたものの、幕政に参加することはほとんど許されなかったようです。もちろん、保科正之が家綱の補佐役になった例外はありますが、これはあくまでも特例措置でした。

 

一方、幕末になると、親藩大名の幕政への参政がみられるようになります。安政の改革では水戸徳川家の徳川斉昭が海防参与に任じられます。文久の改革では、越前松平家の松永慶永が政事総裁職に、一橋徳川家の一橋慶喜が将軍後見職に、そして会津松平家の松平容保が京都守護職にそれぞれ任じられています。また、松平慶永の後を継いで政事総裁職となったのは、同じ越前松平家で川越藩主であった松平直克でした。これらは、幕末期の幕府の危急存亡という特殊事情があったからだといわれています。

 

以上、これら一門のほかに、奥平信昌(家康の長女・亀姫の婿)を祖とする武蔵忍藩(おしはん)〔10万石〕の「奥平松平家」、江戸時代後期に御三卿の田安宗武の子を養嗣子とした伊予松山藩〔15万石〕と伊勢桑名藩〔11万石〕の「久松松平家」、家光の正室・孝子の弟の鷹司信平を祖とする上野吉井藩〔1万石〕の「鷹司松平家」なども親藩に含まれることもあります。

 

高見澤