東藝術倶楽部瓦版 20180702:江戸初期に設置されるも廃止・統合へ-「大津奉行」、「清水奉行」

 

おはようございます。昨日から7月、6月中に関東では梅雨が明けるという前代未聞の事態。日本各地で比較的大きな地震が続き、ここ東京も安心という状態ではないようです。沖縄地方では台風が接近しており暴風雨に注意が必要な一方、東京は今日も暑くなりそうです。

 

さて、本日は遠国奉行の中でも比較的早い時期に設置された「大津奉行」と「清水奉行」について紹介していきたいと思います。これらはいずれも他の遠国奉行と同じように老中支配の旗本役です。

 

先ずは大津奉行についてです。近江国大津は、天智天皇が「近江大津宮」に都を置いた(667年)こともある古き都です。琵琶湖の畔にあることから港町として栄え、さらに琵琶湖の東西の街道が合流する地点でもあったことから、昔から大津宿として東海道の重要な拠点でもありました。

 

室町時代、六角氏の支配下にあった天文2年(1534年)に六角定頼が奉行所を設置し、駒井清宗を大津奉行に任じたのが始まりとされていますが定かではありません。清宗はその後「大津氏」を名乗って子孫が代々大津奉行を継承しますが、六角氏が滅亡することで、大津は織田信長の支配下に置かれます。信長は大津に代官を派遣して、大津を支配させていました。

 

一方、比叡山焼き討ちのあった元亀2年(1571年)、信長は明智光秀に命じて近江滋賀郡坂本(大津市)に坂本城を建てます。京及び比叡山の抑えと、琵琶湖の守りという意味合いがあったようです。信長の死後、天正14年(1586年)に坂本城は廃城となり、浜大津(大津市)に大津城が建てられます。しかし慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いと時を同じくして「大津城の戦い」があり、大津城下は焼失、翌慶長6年に大津城も廃城となりました。

 

慶長5年、大津を支配下に置いた徳川家康は、摂津国の豪商・末吉勘兵衛を大津奉行に任じ、翌慶長6年に大久保長安を大津代官に任命して、奉行と代官の役割を分けました。その後、元和元年(1615年)に大津奉行が遠国奉行の一つとされ、大津代官をその指揮下として置くことになります。しかし、享保7年(1722年)に大津奉行と大津代官は京都町奉行所に統合され、大津代官所は廃止されました。明和9年(1772年)に大津代官所が復活、大津代官として石原氏が6代にわたって大津代官職を世襲していたようです。

 

次に清水奉行です。駿河国清水は天然の良港を有していることから、古くから海軍中継地として発展してきました。戦国時代、清水は今川氏の勢力下でしたが、武田氏が支配するようになると、武田軍の水軍基地として利用されるようになります。

 

江戸時代には、清水湊として西国の赤穂の塩などを江戸に運ぶ中継基地としての役割を担うとともに、富士川舟運を通じた信濃・甲斐方面からの廻米輸送基地として栄えました。また、旧清水市の中心部「江尻」は東海道の「江尻宿」が置かれ、重要な宿場町でもありました。

 

この重要な清水に置かれたのが清水奉行です。元和7年(1621年)に設置され、配下として主水50人が配され、主な任務は駿河湾の監視や警備でした。しかし、元禄9年(1696年)に清水奉行の職務は駿府町奉行に引き継がれ、清水奉行は廃止となりました。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年7月 2日 08:07に書いたブログ記事です。

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