東藝術倶楽部瓦版 20180726:徳川将軍家の親衛隊-「鉄砲百人組」

 

おはようございます。昨日は帝京大学で学生80名を相手に、日中平和友好条約40周年記念の公開ゼミナールで日中ビジネスについて話をしました。中国からの留学生が大半を占め、彼らの勉強意欲は日本の学生の比ではないことが改めて認識されました。世界に影響力を強める中国を支えているのは、こうした若者の旺盛な知識欲と向上心です。

 

さて、本日は「鉄砲百人組(てっぽうひゃくにんぐみ)」について紹介したいと思います。鉄砲百人組は徳川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配に)にありました。4名の組頭の下に鉄砲与力20騎(または25騎)と同心100名が配置されていたことから、百人組と称されていました。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされていました。

 

4組とは、組頭が旗本譜代席の「根来組(ねごろぐみ)」と「甲賀組」、組頭が抱席の「二十五騎組(大久保組)」と「伊賀組(青山組)」を指します。ちなみに二十五騎組のみが鉄砲与力25騎で、残りの組は20騎ということです。通常、先手組のように鉄砲隊は一隊につき20名~50名が配備されていたことから、この鉄砲百人組は特別な存在として位置付けられていたようです。通常の鉄砲組とは異なり、高い火力を有する独立部隊として編制されていました。

天正13年(1585年)、徳川家康に仕えていた成瀬正成の下に根来衆50名が配されたのが後の百人組の原形とされています。根来衆は後に同心100名の根来組となるわけですが、家康の関東入府〔天正18年(1590年)〕後、内藤新宿に配備され、四谷の正成の指揮下で甲州路の防衛に当りました。

 

根来組の次に古いとされるのが甲賀組です。関ヶ原の戦いで活躍した活躍した山岡景友が伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟から与力10騎と同心100名を配下としたことが、甲賀組の始まりとされています。江戸幕府成立後は、千駄ヶ谷に組屋敷、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当しました。

 

伊賀組の編成は慶長6年(1601年)とされています。本能寺の変の際に、家康の伊賀越えの際の道中を警護した伊賀忍者の子孫から構成されましたが、伊賀同心が組頭の服部正成(二代服部半蔵、父の初代半蔵の保長は忍者)の組下に置かれたのは家康の関東入府時だったようです。

 

二十五騎組については史料が乏しく由来は諸説あるようですが、慶長7年(1602年)に内藤清成が与力25騎と同心100名を預けられ、組屋敷を内藤新宿及び大久保に設けたことを始まりとする説が有力です。このため、二十五騎組は別名「大久保組」とも呼ばれています。

 

鉄砲百人組の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警護を行いました。平時の勤務は月に4回程度(一昼夜勤務)と激務には程遠い勤務体制で、扶持が少ないことから普段は傘張りや提灯作り、つつじ栽培などのアルバイトをすることが多かったようです。

 

現在、東京都新宿区に「百人町」という町名があります。皆中(かいちゅう)稲荷神社の例大祭が隔年で行われ、江戸幕府鉄砲百人組が神社に奉納したとされる出陣式を再現したものだそうです。この百人町に住んでいたのは二十五騎組でした。皆中神社の「皆中」は「みなあたる」の意味があるそうです。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年7月26日 09:49に書いたブログ記事です。

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