東藝術倶楽部瓦版 20180817:武士階級の最下層-「御家人の家格」

 

おはようございます。今朝の東京都心は少し風もあり、いつになく涼しく感じました。とはいえ、まだまだ暑い日が続くようです。最近は突然の大雨や突風も各地で起きています。先日、長野に行く際にも二カ所で激しい雨に出会いました。

さて、本日は「御家人の家格」について紹介したいと思います。

徳川幕府直参の家臣の中でも、将軍に御目見えすることが許されない家格のものを御家人と称していたことは、以前にの紹介した通りです。御家人の俸給は、知行100石前後以下、或いは年俸として手当をもらう蔵米取りでした。幕府の上級職には就けず、基本的には中級職以下に就くか、無役となっていました。今でいえば、旗本がキャリア官僚、御家人がノンキャリといったところでしょうか。

御家人にも当然のことながら序列による家格がありました。以前、御家人の紹介で「譜代(ふだい)」、「二半場(にはんば)」、「抱席(かかえせき)」について少し紹介したことがありました。御家人のところでも紹介した通り、譜代は4代将軍・家綱より前の時代に将軍家に与力や同心として仕えた経験のある者、それ以降新たに御家人として登用された者が抱席で、その中間にある者が二半場と呼ばれていました。

由緒ある譜代は、江戸城内の「躑躅の間(つつじのま)」や「焼火の間(たきびのま)」に席が設けられ惣領に家督相続が認められる倅家督となっていました。御抱えが世襲となる二半場も譜代準席として、譜代同様の家督相続が認められていました。それに対して抱席は原則として一代限りの奉公でしたが、この原則もまた時代とともに次第に曖昧になっていったようです。

御家人は、基本的には徒士であり乗馬は認められていませんでしたが、「諸組与力」には江戸御府内では乗馬が許されていました。このため、与力は「騎」をもってその数を表します。与力の下に、徒士や足軽である「諸組同心」がおり、こちらは乗馬は許されていませんでした。徒士は身分ではなく職名であり、足軽については江戸幕府では正式名称として使われていません。武士として御家人の最下級の地位のものが同心ということです。

こうした御家人の下に「中間(ちゅうげん)」、「小者(こもの)」がいました。これらは武士(侍身分)ではなく、苗字や刀を持つことはできませんでした。持つことが許されたのは木刀1本です。中間は足軽と小者の間の身分のことを指し、中間も小物も職務は戦場や平時における雑用でした。

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年8月17日 07:53に書いたブログ記事です。

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