おはようございます。相次ぐ台風の到来もあって、少し涼しくなってきたかと思いきや、また猛暑がぶり返している日本列島です。我が職場も来月9日からの経済界の大型訪中代表団の派遣に向け、殺気立つ張りつめた雰囲気の中での仕事が続きいています。
さて、本日からはもう少し江戸の庶民の生活に密着したシリーズにしていきたいと思います。とはいえ、江戸の町の治安や防火といった点では、幕府の関与が欠かせません。そこで、本日は江戸の行政、司法、立法、治安などを取り扱った「江戸町奉行所」について紹介していきたいと思います。以前、江戸幕府の役職のところで、町奉行については詳細に紹介したので、その点はなくべく重複を避けて説明したいと思います。
江戸町奉行所は、南町奉行所と北町奉行所が月番制でその任に当っていたことは、以前ご紹介した通りです。江戸町奉行所の構成員として、江戸町奉行の下、与力、同心がおり、その下に中間、小者といった雑用係がいました。南北それぞれ1名ずつであった町奉行は町奉行所で唯一旗本から任じられていました。それに対して与力と同心は御家人が務めており、与力の定員は南北合わせて50騎、同心は合計240人となっていました。
江戸町奉行は、就任時に諸大名当主と同格の従五位下諸大夫の官位を授かります。寺社奉行、勘定奉行、町奉行の三奉行と京都所司代及び大坂城代にしか閲覧を許されなかった「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」という法典によって、町奉行は裁きを行っていました。
町奉行には休日というものがありません。基本的に町奉行所内に居住し、毎日辰の刻(午前8時)に江戸城に登城して事案の報告や老中等からの指示を受け、未の刻(午後2時)に奉行所に戻り執務を行っていました。また、評定所の構成員として幕政にも関わるなど職務は相当な激務だったようで、在職中に過労死した者も少なくなかったことは、以前にも紹介した通りです。今で言えば、東京都知事、都議会議長、地方裁判所長、地方検察庁検事正、警視総監、消防総監等の職務を併せ持っていたのですから、月番制とはいえ常に心労は絶えなかったと思います。
町奉行所での裁判に関し、町奉行が行うのは初審と判決の言い渡しのみでした。実務は追って紹介する「吟味方与力」等が行っていました。裁判の判決は公事方御定書に基づいて行われるため、奉行の一存で決められるようなものではありません。刑事裁判では、遠島と死罪の判決は老中へ仕置伺いを出し、評定所での審議を基に老中が決め、形式的には将軍が容認し、老中から町奉行所に通達する形をとっていました。評定所は最高裁判所のような機能も備えていたといえます。ちなみに、示談や民事裁判での判決は町奉行の一存で決められていました。
次回も引き続き、江戸町奉行所について紹介していきます。
高見澤