おはようございます。昨日、一昨日は瓦版をお送りできなく、失礼しました。9月9日から始まる日本経済界の大型訪中代表団の準備に関して、新日鐵住金の宗岡会長と、日本商工会議所の三村会頭を朝一番で往訪し、ご進講していた関係で、瓦版も急遽休刊させていただきました。今後、しばらくはこのような事態が生じることもありますので、ご了承ください。
さて、前回に引き続いて本日も「江戸町奉行所」について紹介していきましょう。江戸町奉行所において、町奉行が唯一の旗本であったのに対し、その下で働く「与力」及び「同心」は御家人から登用されていたことは、前回お話しした通りです。
与力は、もともと「寄騎」とも書かれ、江戸時代に入る前は備(そなえ)を編制する際に、足軽大将などの中級武士が大身武士の指揮下に入る意味合いをもった言葉として用いられていたようです。江戸時代においては、同心とともに町奉行、遠国奉行、留守居、所司代等の役方や、大番頭、書院番組頭、先手頭等の番方に属し、主に庶務、警察、裁判事務などを担当し、下役の同心を指揮・監督していました。ここでは、主に江戸町奉行支配下の「町与力(町方与力)」について紹介したいと思います。
町与力は、江戸町奉行所においてその中枢を担う実力者で、職禄は200石、延享2年(1745年)以降、南北奉行所にそれぞれ25騎の与力が所属していました。与力を「騎」と数えるのは、馬上任務が許されていたことから馬も合わせて数えていたためです。身分としては、建前は一代限りの抱席でしたが、新規採用という形で世襲されていたのが実態で、このため町与力以外への移籍はできませんでした。
町与力は役宅として京橋八丁堀(現在の東京都中央区)に300坪程度の組屋敷が与えられ、八丁堀銀杏の髪型で羽織袴を纏っていたことから、「八丁堀の旦那衆」と呼ばれていました。職禄は決して多くはありませんでしたが、有力与力ともなると大名や旗本、富商等からの付け届けが年間3,000両にも上る者もいたようで、家計はかなり豊かであったようです。与力、力士、火消の頭を「江戸の三男(さんおとこ)」として粋な男の代名詞ともなっていた一方で、罪人を扱うことから「不浄役人」とも呼ばれることもありました。与力の家格は御家人、すなわち御目見え以下でしたから、将軍に謁見することはもちろん、江戸城に登城することも許されていませんでした。
与力の職掌としては、財政・人事を担当する「年番方(ねんばんがた)」、詮議役の「吟味方(ぎんみがた)」、判例の整理・調査を行う「例繰方(れいぐりがた)」など多くの定役のほか、臨時の際の分掌である出役(でやく)も少なくありませんでした。特に18世紀以降は更に業務が細分化したため、1人でいくつもの役掛を兼務することもありました。また、町奉行の家臣から任命される秘書役を務める「内与力」も奉行所に置かれていました。町奉行所の具体的な役職と業務内容については改めて紹介していきましょう。
高見澤