東藝術倶楽部瓦版 20181022:江戸の拘置所・所長-「牢屋奉行」

 

おはようございます。ここ最近、やっと秋を感じる気候になったような気がします。春もそうだったのですが、今年の秋も短く、一気に冬到来の寒さになるのではないかと、心なしか寂しさを感じる今日この頃です。

 

さて、本日は「牢屋奉行(ろうやぶぎょう)」について紹介したいと思います。前回の牢屋見廻り方のところでもお話しした通り、江戸市中で牢屋といえば現在の小伝馬町にかつてあった「伝馬町牢屋敷」のことを指します。牢屋敷は、今でいえば刑務所というよりは、未決囚を収監し死刑を執行する拘置所に近い性質をもった施設といえるでしょう。

 

この牢屋の長官ともいえる役職が牢屋奉行で、「囚獄(しゅうごく)」とも呼ばれていました。この役職は代々「石出帯刀(いしでたてわき)」の名で世襲されていました。初代石出帯刀は、下総香取郡(千葉市若菜区)出身で、元々は本多図書常政と名乗り、番方の大御番を務めていましたが、徳川家康が江戸入府の際に罪人を預けられ、それ以来この職を務めるようになり、石出姓に改めたと言われています。

 

牢屋奉行は町奉行の配下に属していて、その主な職務は牢屋役人である同心や下男の支配、牢屋敷並びに収監者の監督・管理、各牢屋の見廻り、収監者からの訴えの聞き届け、牢屋敷内における刑罰執行や赦免・宥免の立会などでした。

 

家格は旗本ではあったものの、譜代・役上下(やくかみしも)・御目見以下で、旗本としては最低レベルの扱いとなっていました。御目見え以下で登城が許されていないという意味では、実質的には与力に近い地位だったのかもしれません。牢屋奉行は、牢屋敷内に拝領地を与えられ住んでおり、家禄は300俵、人によっては報償や役料の形で十人扶持が下されています。服装は麻裃で、供回りは槍持、挟箱持、草履取若党が付いていました。

 

歴代の石出帯刀の中で、最も高名な人物として「石出吉深(いしでよしふか)」〔元和元年(1616年)~元禄2年(1689年)〕がいます。明暦3年(1657年)に発生した明暦の大火(振袖火事)の際に、牢屋敷の収監者に対して独断で「打ち切り」と呼ばれる期限限定の囚人解放を行い、収監者の命を救った業績があります。その数は120人~130人といわれ、収監者全員が約束通り戻ってきました。本来であればそのような権限がなかったにもかかわらず、自ら罰を受ける覚悟で英断を下し、その心意気に収監者が応えたというのですから、どこか心を打たれる話でもあります。

 

この処置については、幕閣も追認することとなりました。また、戻ってきた収監者に対しては、吉深が罪一等の減刑を幕府に嘆願し、収監者全員の減刑が実現しました。これ以降、江戸時代を通じて「打ち切り後に戻ってきた者には罪一等減刑、戻らぬ者は死罪(後に減刑無し)」とする制度が慣例化されました。この制度は、現行の法律にも活かされています。

 

また、吉深は歌人、連歌師、国学者としても重要な業績を残しており、江戸の四大連歌師の一人にも挙げられています。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年10月22日 11:17に書いたブログ記事です。

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