東藝術倶楽部瓦版 20181029:牢屋敷の雑務担当「牢屋下男」、医療担当「牢屋医師」

 

おはようございます。先週は安倍首相の中国公式訪問に合わせて行われた第1回日中第三国市場協力フォーラムに参加するため、北京に出張してきました。首相訪中ということもあり、中々詳細なスケジュールが直前まで決まらず、更に会場が日本の国会議事堂にあたる人民大会堂で行われたものですから、セキュリティや時間、場内外の移動に何かと制限があり、フォーラム当日もかなり混乱した状態でした。会場では、私も中国中央テレビ(CCTV)のインタビューを受け、短い時間ですが放映されました。下記URLをクリックしていただければ、01:16辺りで私が登場してきます。

 

http://tv.cctv.com/2018/10/26/VIDE4wQGyRhnBWYGEqvlb3GK181026.shtml

 

さて、本日は、「牢屋下男」と「牢屋医師」について紹介したいと思います。牢屋敷には、前回紹介した牢屋同心のほかにも、雑用係や医師などが配置されていました。

 

先ず牢屋下男ですが、これは牢屋敷勤務の雑用係で、牢屋同心の支配下にありました。主な職務は牢内の見張り番、門番、炊事、運搬などで、給与は年に1両2分のほか、1日4文の味噌代が給されており、一人扶持で江戸幕府職制給与の中で最低賃金だったといわれています。とはいえ、付届けや囚人の買い物からのピンハネ等で、半年下男をしていると2030両のカネができるといわれ、生活は比較的楽だったようです。

 

身分は抱席の御家人ということで、職を離れると御家人の身分も失いました。服装は、背中に「出」の字の入った法被を着て、股引をはいていました。定員は、当初は30名でしたが、百姓牢が設置された時に38名となり、うち1人が親方、2人が門番、2人が薬部屋に勤め、18人が賄役、残りが牢番として職責が分かれていました。その後、揚屋が増設された慶応元年(1865)年には、定員は48名いたそうです。

 

次に牢屋医師です。元々牢内の囚人を診察する医師は、町医師で仮御雇(かりおやとい)の形式でしたが、後に「牢屋敷手附」と呼ばれるようになりました。医師の数は、「本道」と呼ばれる内科が2人、外科が1人でした。本道医は毎朝夕見廻りで月1両、外科医は隔日廻りで月2分でした。

 

牢屋医師は、囚人の診察・治療のほか、牢問・拷問にも立ち会い、囚人の気付けや傷の手当てもしていました。

 

牢屋敷内には、このほかにも囚人の護送、引き廻し、晒しの実務を行った「非人」がいました。

 

牢屋敷については、以前、町奉行所から「牢屋見廻り方(与力・同心)」が牢屋敷の監察として派遣されてくることを紹介しましたが、牢屋敷監察には町奉行所のほか、目付の目代として「徒目付(かちめつけ)」が、毎日1回見回りを行い、牢屋同心などの役人も検分していました。また、番方の火付け盗賊改め方の与力も見廻っていたようです。

 

高見

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年10月29日 08:50に書いたブログ記事です。

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