おはようございます。時の過ぎるのもアッという間で、今年もすでに1月が終わろうとしています。正月を迎えたのが昨日のように思えるほど、時間の経つのがますます速く感じるこの頃です。そして肉体は当たり前のように老化現象を迎えます。気持ちとしては、いつまでも若いつもりでも、いつの間にか身体は思うように動かなくなります。これもまた理論的にはよく分からない現象です。
さて、本日は「宝暦の大火」について紹介したいと思います。宝暦10年2月6日(1760年3月22日)、神田旅籠町(現在の東京都千代田区外神田1丁目、3丁目)の足袋商の明石屋から出火した火が、北西の風に煽られて日本橋、木挽町を焼き、更に深川から洲崎(現在の東京都江東区東陽1丁目)まで類焼する大火となりました。
この火事で合わせて126町(460町という記述もある)が焼け、寺社80カ所、江戸三座の中村座と市村座、更には永代橋などが焼失したといわれています。ちなみに死者数は不明です。この火事は宝暦の大火といわれていますが、火元となった明石屋の名から「明石屋火事」とも呼ばれています。
宝暦の大火後、宝暦11年9月17日(1761年10月14日)に、日本橋堺町にあった古浄瑠璃の芝居小屋・薩摩座から出火する火事が発生しました。これにより、中村座、市村座も類焼してしまいました。
高見澤