おはようございます。昨日の東京都心は久しぶりに少し強い雨が降っていましたが、夜にはすっかりと止み、今朝は晴れています。節分も過ぎ、これから春に向かって雨も少しずつですが増えていくものと思います。今日の東京の天気は降水確率0%の晴れ、気温は17℃まで上がる四月上旬並みの気候になるようです。
さて、本日は寛政年間(1789年~1801年)の大火と、その中でも特に別称が付いた「桜田火事」について紹介したいと思います。寛政年間といえば、天明7年(1787年)から寛政5年(1793年)まで続く老中・松平定信による「寛政の改革」で有名ですが、浮世絵愛好家の間では寛政6年(1794年)に彗星の如く現われて、わずか10カ月ほど活動した後に消えていった浮世絵師・東洲斎写楽のことを思わずにはいられません。
この寛政年間にも江戸では頻繁に大火が発生します。寛政元年(1789年)に、南日ヶ窪町(現在の東京都港区麻布十番一丁目、六本木五・六丁目)から出火し、幅2町、長さ4町にわたり延焼する火事が発生しました。麻布永坂まで類焼したといいます。
寛政4年(1792年)7月21日昼、麻布笄橋(こうがいばし)より出火、番町から麹町まで焼失しました。寛政5年(1973年)10月25日には、湯島から出火した火が日本橋まで延焼し、これにより中村座、市村座が類焼してしまいました。
寛政6年(1794年)正月10日未申刻(13時~17時)、麹町五丁目にある秋田屋という酒屋から出火した火が、烈風に煽られて山王神社、永田馬場、霞が関、虎御門外、桜田辺りの諸侯藩邸が類焼、さらに幸橋御門を焼いて、愛宕下、日蔭町、新橋、芝新銭座、仙台・会津家等の屋敷一円(現在の東京都港区の新橋、芝、浜松町一帯)が焼失した記録(『武江年表』)が残されています。この火事は、桜田門外の大名屋敷を中心に焼失していることから、「桜田火事」と呼ばれています。寛政6年には、4月2日にも亥の刻(21時~23時)に吉原遊郭を全焼する火事が起きています。
寛政9年(1797年)11月22日昼四ツ半時(午前11時)頃、神田佐久間町から出火します。この火事は隅田川を越えて木場まで延焼し、3,000人ほどの死者が出たとされています。寛政12年(1800年)2月23日亥の半刻(22時)頃、今度は浅草龍泉寺町より出火します。この火事では吉原遊郭が全焼し、浅草田町ほか6カ所に仮宅ができたようです。
高見澤