おはようございます。東京都心は、昨日夕方から降っていた雨も今は止んで、晴れ間も見えていますが、今日も夕方から雲が多くなり、場所によってはまた雨になりそうな予報も出ています。先月はほとんど降らなかった雨ですが、ここにきて傘を使う日が増えてきています。次第に暖かくなっていくのでしょうね。
さて、本日は前回の文政年間の大火の続きを紹介していきましょう。その中には「文政の大火」と呼ばれる比較的大きな火災も含めれています。
文政11年(1828年)2月5日、神田多町(たちょう)より出火した火災は、本町、鎌倉河岸、小川町(いずれも千代田区神田周辺で現在も地名が残っているところもある。鎌倉河岸は内神田一丁目)まで延焼しました。翌文政12年(1829年)2月16日、今度は音羽町(文京区)から出火し、巣鴨(豊島区)まで延焼する火事が発生しました。
同じ文政12年3月21日巳の刻(午前10時)過ぎ、神田佐久間町二丁目(千代田区)から火災が発生します。火元となったのは材木商・尾張屋徳右衛門の材木小屋で、現在の秋葉原駅の東側の神田川北側一帯で、今も地名が残っています。
折しも火は西北の風に煽られて神田川を越え、南側は東神田から京橋(中央区)、新橋、芝(いずれも港区)まで延焼し、東側は両国橋の西際から八丁堀、築地(いずれも中央区)を焼失させ、さらに佃島(中央区)まで至りました。鎮火したのは翌朝のことだったようです。焼失面積は幅20町(約2.2キロメートル)、長さ1里(約4キロメートル)に及び、大名屋敷73カ所、旗本屋敷130カ所、町屋約3万軒のほか、日本橋を含む多く橋や船が焼失、中村座・市村座等の芝居小屋も焼け、死者は2,800人余りに達したとのことです。
この火事が「文政の大火」と呼ばれるもので、出火元にちなんで「神田佐久間町の火事」、又は文政12年が「己丑(つちのとうし、きちゅう)」の年だったことから「己丑の大火」ともいわれています。
この佐久間町ですが、この一帯は材木商や薪商が多く、俗称で「神田材木町」とも呼ばれていました。また、火災が多く発生したことから「悪魔町」ともいわれていました。
高見澤