東藝術倶楽部瓦版 20190221:江戸の主な大火-天保年間の大火と「甲午火事」

 

おはようございます。今朝の東京都心は、昨晩降っていた雨も止み、明るい月が顔を出していました。今日は昨日ほど最高気温は上がらないものの、安定した天気で、3月下旬並みの気候になるそうです。桜が咲く頃のような陽気でだそうですが、花粉症に悩む人にとっては、これからつらい季節になりそうです。明日は朝から立ち寄りのため、瓦版はお休みします。

 

さて、本日は天保年間(1831年~1845年)の大火について紹介していきたいと思います。文政年間(1818年~1831年)には「文政の大火」を始めたくさんの大火が発生していましたが、次の天保年間にも頻繁に大きな火災が発生しています。

 

天保元年1223日(1831年2月5日)、日本橋小伝馬町から出火した火が幅1町半、長さ6町が焼け、中村座、市村座が焼失しました。

 

天保5年2月7日(1834年3月16日)昼八ツ時(午後2時頃)、今回は文政の大火と同じように神田佐久間町より出火します。火元となったのは、佐久間町二丁目の琴師の家でした。この火事は北風に煽られて神田川を越え東神田お玉が池の辺り(現在の千代田区岩本町二丁目)に燃え広がり、東は両国矢の倉辺り、西は日本橋方面から八丁堀・築地辺りまで火が至ったようです。火事は2月13日(3月22日)まで断続的に発生したそうです。この火事により、中村座、市村座が類焼、焼失町数は480町余り、焼死者は4,000人余りとなる大災害になりました。この火事が起きた年が「甲午(きのえうま)」の年であったことから「甲午火事」と呼ばれています。


 

天保6年(1835年)1月25日、吉原角町の堺屋から出火、郭中が焼失したのに続き、同年2月21日にも再び吉原角町から出火し、この火事でも郭中が全焼してしまいました。また、天保8年(1837年)1019日、今度は同じ吉原の江戸町二丁目から出火した火事により、遊郭が焼失しました。

 

天保9年(1838年)4月7日午の半刻(正午)に日本橋小田原町二丁目から出火、幅9町、長さ23町にわたり燃え広がり、日本橋、神田一帯が類焼する火事が起きました。翌天保10年(1839年)3月2日申の刻(午後4時頃)に小石川茗荷谷五軒町より出火する火事が起きます。この火事は駒込まで延焼し、夜には北本所と麹町から出火するという連続火事が起きてしまいました。

 

天保12年(1841年)10月7日、暁七ツ半(午前5時頃)に日本橋堺町の水茶屋から出火する火事が発生します。幅4町、長さ5町ほどが延焼し、中村座、市村座が延焼してしまいました。この火事により、江戸三座が浅草猿若町(現在の台東区浅草六丁目)に移転を命じられました。

 

天保14年(1843年)4月17日、両国吉川町(現在の中央区東日本橋二丁目)にあった花火屋玉屋から出火する火事が起きます。玉屋は所払いとなり、浅草誓願寺前(現在の台東区西浅草二丁目)に移転しました。

 

高見澤

 

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年2月21日 08:47に書いたブログ記事です。

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