東藝術倶楽部瓦版 20190318:宿場を取り仕切る事務所-「問屋場」

 

おはようございます。先週、国の委託事業の報告書を提出しました。提出期限が迫る中、残業続きで睡眠も満足にとれず、それが終わったかと思うと、今週は金曜日から来週月曜日まで北京での中国発展ハイレベルフォーラムという国際会議に出席のために中国出張。更には来週火曜日には理事会があり、4月からの新たな年度に向けた事業計画及び予算議決のための資料作りを並行して行わなければなりません。また、3月5日から行われていた中国の国会に相当する全国人民代表大会で、外資企業にとって新たな重要法案「外商投資法」が制定され、会議全体の内容ととものその法律の分析もしなければなりません。息つく暇もなく、多忙な日が続きます。

 

さて、本日から暫くの間は宿場にあった諸々の施設について紹介していきたいと思います。先ずは「問屋場(といやば、とんやば)」について紹介してみましょう。問屋場とは、宿場運営を行うための宿役人が置かれていた事務所で、「駅亭(駅締)」、「伝馬所」などとも呼ばれていました。

 

幕府の公用の旅行者や大名などが宿場を利用する際に、助郷賦課など必要な人馬を用意し、その荷物を次の宿場まで運んだり(人馬の継立)、幕府公用の書状や荷物を次の宿場に届ける継飛脚等の業務を行っていました。

 

これらの業務を円滑に行うために、問屋場には宿場の最高責任者ともいうべき「問屋(といや)」と呼ばれる主宰者がおり、その補佐役として「年寄(としより)」と呼ばれる助役、人馬の出入りや賃銭を記入する「帳付(ちょうづけ)」と呼ばれる事務担当、更には人馬に荷物を振り分ける「馬指(うまさし)」や「人馬指(じんばさし)」と呼ばれる下役がいました。また、参勤交代の大名行列を宿場の出入り口で出迎える「迎役(むかえやく)」を設けていた宿場もありました。

 

問屋場には、通常は交代で詰めていましたが、大名行列など大きな通行があるときは、全員で対応していました。宿場によっては、問屋場が複数設けられていたところもあり、交替で業務を担当していました。

 

明治元年(1868年)、明治政府は問屋場を伝馬所、問屋を取締役と改め、取締役の定員を1駅2名としました。その後、明治3年(1870年)に取締役が廃止され、伝馬所は交通通信担当の官司である「駅逓司(えきていし)」の管轄下に置かれ、明治5年(1872年)に伝馬所を含む宿駅制度が廃止されました。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年3月18日 08:08に書いたブログ記事です。

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