東藝術倶楽部瓦版 20190328:いろいろなものやサービスを提供する「茶屋」

 

おはようございます。昨日は、朝方が少し寒く感じたので薄手のコートを着ていきましたが、昼間はかなり気温が上昇しコートは必要としませんでした。ところが夜は風が冷たく、再びコートの出番となりました。夕食は某大手商社の接待施設で会食があり、帰宅の途に就いたのは夜9時過ぎでした。今日は昼に中国のメディア関係者と会食、明日は、朝からホテルニューオータニで朝食付きの日中経済関連団体の会合と、食事を含めた外での会議が続きます。明日は瓦版をお送りすることができず、休刊とさせていただきます。ご了承ください。

 

さて、本日は「茶屋(ちゃや)」について紹介したいと思います。江戸時代、茶屋というのは、客にお茶を出して休息させる「茶店(ちゃみせ)」から発展した各種の飲食遊興のお店のことを指します。もちろん茶店も茶屋の一つに数えられます。

 

日本でお茶を楽しむ喫茶の習慣が広がったのは、一般的には延暦24年(805年)に唐から帰国した最澄が茶の苗木を持ち帰り、比叡山山麓に植えたことに始まると言われていますが、はっきりしたことは分かっていません。最初は寺社や貴族の間で飲まれていたお茶も、15世紀の室町時代になると庶民の間にも広がっていきました。東寺の門前などで参拝客に茶湯一杯を安価で提供する「一服一銭」が茶屋の前身だと言われていますが、当初は縁日などに茶道具を持ち込んでの立売が基本で、店舗ではなかったようです。

 

この「一服一銭」が、後に寺社の門前に小屋がけをするようになり、「一銭茶屋」と呼ばれる「掛茶屋(かけぢゃや)」が登場してきます。掛茶屋は、路傍や公園などに腰掛を置き葦簀をさし掛けて簡単に造ったことから、こう呼ばれていました。江戸時代に入り社会が安定してくると、宿場を中心にいろいろな茶屋が生まれてきました。街道筋に多くの掛茶屋が登場するのですが、当初は宿場を離れた山中に休息の場所として設けられました。

 

これが次第に宿場近くの棒鼻(ぼうはな)にまで進出してきます。この宿場はずれにできた茶屋を「立場茶屋(たてばぢゃや)」といいます。宿場の境に棒杭が立っていたことから、立場と言っていたそうです。宿場保護のために、立場茶屋での食事や宿泊は禁じられていましたが、力餅などの軽食や酒、肴などが提供されるようになり、やがて給仕女を置いて客引きを行う店も登場してきました。

 

これに対して宿場に置かれた茶屋を「水茶屋(みずぢゃや)」と呼びます。寺社の境内や道端に設けた掛茶屋で、単に茶湯を出すだけでしたが、看板娘を置くなどして、江戸庶民にとっては休息の場所として利用されることが多かったようです。また、お茶の葉を売る「葉茶屋(はぢゃや)」と呼ばれる茶屋もあり、店先には縁台に緋毛氈(ひもうせん)や赤い布を掛け、赤い野点傘を差していたところもありました。

 

このほか、貸席を営む「待合茶屋(まちあいぢゃや)」や「出会茶屋(であいぢゃや)」、吉原などで遊客を妓楼に案内する「引手茶屋(ひきてぢゃや)」などの「色茶屋(いろぢゃや)」、更には芝居小屋に付属して観客の案内や幕間の休息・食事などの世話をする「芝居茶屋(しばいぢゃや)」、大相撲の興業中に観客に酒食を提供したり相撲の観覧席の売りさばきを任させる「相撲茶屋(すもうぢゃや)」などがありました。京や大坂には、太夫(たゆう)を呼ぶ「揚屋(あげや)」に対して、下級妓である「天神」を揚げて遊ぶ「天神茶屋(てんじんぢゃや)」と呼ばれる茶屋もあったそうです。

 

また、客室があって、客の注文に応じて料理を食べさせる「料理茶屋(りょうりちゃや)」が登場したもの江戸時代です。料理茶屋の中には、江戸時代に創業して現在も料亭として営業している店もあります。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年3月28日 09:04に書いたブログ記事です。

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