五街道の整備方針

 

おはようございます。NHKがまとめたところによると、東日本大震災で大事故を起こした福島第一原子力発電所から放出されている今年1月までの1年間の放射性物質の放出量が、前年と比べて2倍近くになっているとのことです。東京電力では、廃炉作業で一時的に増えたのが原因と思われるが、1時間当たりの放出量は国の基準を大きく下回っているとしていますが、事故からすでに8年が過ぎようとしているにもかかわらず、当初の計画から大幅に遅れ、遅々として進まない廃炉作業、溜りに溜り続ける汚染水など、問題は雪だるま式に増えていく一方です。最終的に、誰がこの責任を取るというのでしょうか?

 

さて、本日は「五街道の整備方針」について紹介したいと思います。日本全国を結ぶ道路の中でも、特に基幹道路として整備された五街道は、徳川幕府の政治的基盤が固まり、平和で経済・社会が安定した時代に相応しく人々の往来や物資の輸送に大きな役割を果たすことになりました。

 

このため、一里(約4キロメートル)を36町として、一里ごとに「一里塚」を設けて移動距離の目安を示し、路傍に並木を植えることを義務付け、道幅を広げて一定間隔で宿場を置くこととしました。宿場には本陣、脇本陣、旅籠などが立ち並び、旅人は道路の整備状況をみてそれぞれの藩の状況判断をすることから、各藩は道路の整備を重視していたと言われています。

 

慶長10年(1605年)の秀忠の命による道路整備では、標準幅は5間(約9メートル)と定められましたが、山間部では状況に応じて2間(約4メートル)~4間(約7メートル)に縮小されていました。1630年頃の『慶長見聞集』には、「街道には眞砂をしき、土のあきまなければ、土くじり(土埃)はいづくをか吹からん、町しづかなり」とあり、路面が砂利や砂で固められていたことが分かります。当時の交通の大半が徒歩であったことから道路の痛みは少なく、メンテナンスは今ほど面倒ではなかったようです。

 

万治2年(1659年)以降、五街道と脇街道は道中奉行の直轄として江戸幕府が直接管理し、それ以外の街道は勘定奉行の管轄とするも、実際の管理は沿道の藩が行っていました。大雨などで道路が大きく破損したときには、道中奉行の指示によって所管の代官や大名が「御普請」を実施、実際の作業は近隣の百姓の自普請という形で行うよう指示が出されていました。幕府は、周辺住民が共同で維持管理する組合の結成を奨励し、日々の道理の維持管理は沿道・近隣の町村が負担する仕組みとなっていて、負担するのは概ね街道から20キロメートル以内の町村と規定されていました。

 

また、軍事や治安、安全への配慮もあって、朱印状によって各宿場に伝馬の常備を義務付け、街道の要所には関所や番所を設けて検問を行っていました。参勤交代が行われるようになって、江戸幕府が特に注意を払っていたのが「入鉄砲出女(いりでっぽうにでおんな)」です。「入鉄砲」といのは、江戸に入ってくる武器の取締りを指し、「出女」とは参勤交代制度で人質として江戸に居住させている諸大名の妻子が江戸から勝手に出ないよう取り締まることです。政治的社会的には比較的安定していた江戸時代ですが、それでも何かと気配りしなければならないことが多かったようです。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年3月 8日 07:01に書いたブログ記事です。

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