おはようございます。まだまだ朝晩は寒い日が続きます。昨日、中国の程永華駐日大使の帰国のニュースがテレビで大きく報道されていました。大使としては9年間という異例の長さになっており、数年前から交代の噂は流れていたものの、交代することはありませんでした。尖閣を巡って日中関係が大きく揺らぐ厳しい時期であったこともあり、余人をもって代え難しのところがあったのかもしれません。もちろん、日中関係に携わる私にとっては注目すべき大きなニュースですが、一般的に今回の帰国のニュースは日本にとって影響が大きかったのでしょうか? それとも、他に大きなニュースがなかったのか? 仮に日本の駐中国大使が交代となった場合でも、中国ではこれほど大きく報道されることはないでしょうね。明日は清明節で、中国では祝日になります。それが理由ではありませんが、所用で瓦版の更新ができません。休刊になりますことご了承ください。次回は4月8日(月)以降になります。
さて、本日からは五街道それぞれの紹介に移っていきたいと思います。最初は、やはり「東海道」から始めるべきでしょう。東海道は、以前にも紹介した通り、先ずは「五機七道」の一つとして行政区分とともに、その地域を通る幹線道路を指す言葉として使われ始めました。その字が示す通り、機内から太平洋沿岸を東にのびる道で、現在の三重県から茨城県に至っていました。
当初は、伊賀国(三重県西部)、伊勢国(西部・南部・志摩半島を除く三重県全域)、志摩国(三重県志摩半島・愛知県渥美半島の間にある一部島々)、尾張国(愛知県西部)、三河国(愛知県中部・東部)、遠江国(静岡県西部)、駿河国(静岡県中部・東部)、伊豆国(静岡県伊豆半島・伊豆諸島)、甲斐国(山梨県)、相模国(神奈川県中部・西部)、上総国(千葉県中部)、下総国(東京都隅田川東岸・千葉県北部・埼玉県中川東岸・茨城県南西部)、常陸国(茨城県)の13カ国でしたが、養老2年(718年)に安房国(千葉県南部)が上総国より分立して14カ国になり、宝亀2年には武蔵国(東京都・埼玉県・神奈川県東部の一部)が東山道から東海道に編入され、最終的には15カ国になりました。
道としての東海道については、律令時代には中路であった東海道も、鎌倉時代に入って武家政権による東国関東の重要性が増してくると、道としての東海道もより広く、より直線的に整備されていきました。機内から関東に至る太平洋側には、揖斐(いび)川、長良(ながら)川、木曽川、天竜川、大井川、安倍川、富士川、多摩川、利根川などの大きな川が太平洋に流れ込んでおり、その渡河が困難を極めていたことから、当初は山道である東山道の方が安全とされていましたが、10世紀以降、架橋や渡し船など渡河の仕組みが整備されると、東海道の利用が次第に活発になっていきました。
律令時代から江戸時代前までは、水害等の自然災害や交通・物流の発展などの影響もあり、頻繁に東海道のルート変更が行われていたと考えられています。道路や宿場、関所の整備が進むことで、関が原越えや箱根峠越えなどのルートが開設され、京と関東の間がより短い距離で結ばれたのは、中世になってからのことと考えられています。そして、江戸時代に入って、五街道としての東海道が誕生し、江戸と西国を結ぶ最も重要な幹線として整備が進められていくのです。
高見澤