おはようございます。昨日の雨もすっかり上がり、今朝は良い天気に恵まれた東京都心です。明日はまた雨との天気予報で、咲き誇っていた桜の花びらもそろそろ散り行く時期になります。
さて、本日は「東海道の脇往還」について紹介していきたいと思います。脇往還とは、以前にも説明した通り、「脇街道」とも呼ばれ、江戸時代の五街道につながる五街道以外の幕府直轄の主要な道路で、万治2年(1659年)から道中奉行の管轄下に置かれます。
東海道には、軍事的にボトルネックになる地点、地理的に迂回しなければならない状況が発生する地点などが少なからず存在していました。こうした交通上の脆弱な場所や不便な部分を、時には回避するために、いくつかの脇往還が置かれていました。
東海道につながる主な脇往還としては、中原街道、本坂通(ほんさかどおり、姫街道)、佐屋路(佐屋街道)などがあります。中原街道は、相模国の内陸部を通って直線的に結ぶ道です。江戸から平塚までをほぼ直線的につなぎ、沿道の農産物等の運搬や旅人の最速ルートとして利用されていました。東海道は大名行列が頻繁に行き交うため、その煩わしさを嫌う庶民の利用が多かったようです。中原街道の名称は、今でも残っており、国道1号桜田通りから東京都道・神奈川県道2号(五反田から丸子橋交差点)と神奈川県道45号線に相当する道路を指します。
本坂通は、東海道見附宿と御油宿を結ぶ街道です。浜名湖の北側を通り、本坂峠を経由する約60キロメートルの道程です。中世以降、本坂峠を経由したことから「本坂越」、「本坂道」、「本坂街道」とも呼ばれており、幕末頃には「姫街道」と言われるようになりました。姫街道の呼称については、公家の奥方や姫君、女中が増えたことによるとの説もありますが、はっきりしたことは分かりません。この道は、見附宿から今切の渡しと新居関所を迂回し、気賀関所を通り、本坂峠を越えて吉田宿へも抜けることができました。
佐屋路は、前回も少し説明しましたが、七里の渡しを迂回する街道で、東海道宮宿(熱田宿)から桑名宿に至るものです。宮宿から佐屋宿(愛知県愛西市)までは陸路、佐屋宿から木曽川の「三里の渡し」を経て桑名宿に至ります。嘉永11年(1634年)に開設され、寛文6年(1666年)に東海道の脇往還として江戸幕府に公認されました。
この他にも、東海道の鈴鹿峠・七里の渡しや中山道の太田の渡しを迂回する東海道宮宿から中山道垂井宿に至る「美濃路」、東海道五十三次終点の京・三条大橋から大坂へ向かう「京街道(大坂街道)」なども主要な脇往還として、道中奉行の管轄下に置かれていました。
高見澤