東藝術倶楽部瓦版 20190410:月日は百台の過客にして、行き交う年もまた旅人なり-「日光街道」

 

おはようございます。2024年度上半期から新しい紙幣が発行されるとの報道がなされました。一万円札の絵柄が福沢諭吉から渋沢栄一に、五千円札が新渡戸稲造から津田梅子に、そして千円札が野口英世から北里柴三郎に代わるとのこと。裏面も一万円札が東京駅丸の内駅舎、五千円札が藤の花、千円札が葛飾北斎の浮世絵「富岳三十六景 神奈川沖浪裏」が採用されます。これまで、お札のデザインに使われる人物や風景は明治維新以降のものが多く採用され、江戸時代以前のものの採用は限られた範囲にとどまっています。日本政府としては、もっと自国の文化・伝統に誇りと自信を持った態度で日本をアピールしていってもらいたいものです。

 

さて、本日は五街道のうち、東海道の次に整備された「日光街道」について紹介しようと思います。

 

「月日は百台の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」。皆さんもご存知の通り、俳人・松尾芭蕉の『奥の細道』の冒頭の一節です。元禄2年(1689年)、芭蕉は門人の河合曾良を伴って奥州を目指す旅に出ます。江戸深川にあった草庵を発って千住から日光街道を通って日光へ向かい、下野国羽黒を目指します。

 

この日光街道は、正式には「日光道中」と呼ばれ、江戸日本橋を起点として、千住、幸手(さって)、栗橋、小金井、宇都宮を経て、日光東照宮のある下野国・日光坊中に至る約150キロメートルの街道です。このうち、日本橋-宇都宮間は奥州街道と重複し、狭義には宇都宮-日光間の約35キロメートルを指すこともあります。日本橋から宇都宮までは、日本橋を除いて17宿、宇都宮から日光までは宇都宮と日光を除いて4宿で、合計21宿ありました。具体的には、以下の通りです。

武蔵国:[日本橋(江戸)]-千住-草加-越ヶ谷-粕壁-杉戸ー幸手ー栗橋-〔7宿〕

下総国:中田-古河-〔2宿〕-

下野国:野木-間々田-小山-新田-小金井-石橋-雀宮-宇都宮〔8宿〕

下野国:[宇都宮]-徳次郎-大沢-今市-鉢石-[日光坊中]〔4宿〕

 

日光街道が開通したのは寛永13年(1636年)のことで、五街道としては東海道の寛永元年(1624年)に続くものです。元々、江戸から宇都宮までは「古道奥州道」と呼ばれる道があり、日光街道の整備によってその名称がなくなり、以来日光街道と称されるようになりました。また、宇都宮城下から北に向かう鉢石宿の間にも「古道日光街道」が通じていましたが、新たにその東側に並行する形で日光街道が設置されました。

 

日光街道が整備された目的としては、徳川家康を祀る日光東照宮(日光山)に、歴代徳川将軍家が参拝するためと言われています。しかし、将軍家が日光へ参詣する際には、中山道の本郷追分から岩淵、川口、鳩ケ谷、大門、岩槻を通って幸手宿に至る「日光御成道(にっこうおなりみち)」を通るのが通例であったようです。その後、幸手宿から小山宿までは日光街道を進み、小山宿以北は日光街道のほか、壬生(みぶ)、楡木(にれぎ)を経て今市に抜ける「壬生通り(壬生道)」や、「日光例弊使街道(にっこうれいへいしかいどう)」と呼ばれる脇街道を経て日光に至るルートも使われていたとのことです。

 

一方、江戸から下野国を経て奥州方面に至る物流の大動脈として、この日光街道は重要な役割を果たしていたようで、江戸幕府としてもそうした意味から計画し、整備していったものと思われます。

 

日光街道は、現在でも国道4号線の宇都宮以南と国道119号線の通称として使われています。過去の遺産を上手に活用して今の生活につなげる。これもまた日本文化の誇るべきところでしょう。

 

高見澤