東藝術倶楽部瓦版 20190418:会津若松と米沢を結ぶ重要な交通路-「米沢街道」

 

おはようございます。「ルパン三世」でお馴染みの漫画家、モンキーパンチ氏が肺炎で亡くなりました。日本人男性の平均寿命と同じ81歳だったようです。死因は肺炎とのことで、日本人の死亡原因としては悪性新生物(ガン)、心臓疾患に次いで三番目。特に誤嚥性肺炎は、飲み込む力が衰える老人に多くみられ、私の父親の死因もこの誤嚥性肺炎でした。普通の食事ができず、流動性の高い食べ物ばかりになると、逆に飲み込む力が衰えていくそうですから、日々の食事の大切さを改めて感じるところです。人間40歳を過ぎると、唾液の分泌量が減り、口内に細菌が繁殖することも肺炎の原因になるようですら、食事の際に普段からよく噛んで唾液を出す習慣をつけることにも心掛けたいですね。

 

さて、本日は「米沢街道」について紹介したいと思います。米沢街道は、陸奥国会津郡若松(現在の福島県会津若松市)と出羽国置賜(おきたま、おいたま)郡米沢(現在の山形県米沢市)を結ぶ街道で、「会津街道」とも呼ばれていました。

 

米沢街道の総距離は約14里(約56キロメートル)、宿場の数は若松及び米沢を含め8宿と比較的短い街道でした。若松城下から途中の熊倉宿(現在の福島県喜多方市)までは、上街道、中街道、下街道の3つの別ルートがありました。江戸時代に入る前までは上街道、中街道が本筋として使われていましたが、慶長13年(1608年)以降、下街道が本街道として用いられるようになります。

 

下街道は若松城下から上高野、笈川(おいかわ)、塩川を経由して熊倉宿(現在の福島県喜多方市)に至るルートです。中街道は、会津若松城下から下街道の東側を藤室、代田、常世を経由して熊倉に至るルートで、上街道は更にその東側を荒久田、金道、常世を経由して熊倉に至るルートでした。若松城下及びその周辺でも経路が異なっていたようです。

 

熊倉宿から北へ向かう先は、標高1,150メートルの大峠を越えて米沢に至っています。江戸時代は、重要な交通路となっていました。尚、伊達政宗が猪苗代地方に攻め込んだ際には、熊倉、大塩、松原を経て米沢に至るルートもあったようです。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年4月18日 09:56に書いたブログ記事です。

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