東藝術倶楽部瓦版 20190423:中山道と甲州街道を結ぶ「秩父往還」

 

各国政府は厳重な警戒を敷くことになるでしょう。犯行は国内のイスラム過激派「ナショナル・タウヒード・ジャアマ(NTJ)」によるものとのことですが、本来は仏教国で、ここしばらくは平穏な状態が続いていたスリランカで、こうしたテロ事件が起きたということの意味、背景を探る必要があります。世界の平和と安定は、いつになったらもたらされるのでしょうか?

 

さて、本日もまた中山道の脇街道について紹介したいと思います。今回は「秩父往還」です。秩父往還は、中山道の熊谷宿がある石原村(現在の熊谷市)を起点に荒川渓谷沿いを通り、秩父盆地を横断し雁坂峠を越えて甲府に至る街道で、「秩父往還道」、「秩父甲州往還」とも呼ばれていました。また、甲州側からは「雁坂口」や「秩父路」、秩父側からは「甲州路」や「信玄路」とも呼ばれていたようです。

 

秩父往還は、江戸から甲府を経て中山道に向かう甲州街道の裏街道でもあり、複数のルートがあったことが分かっています。その中でもっとも重要とされていたのは、現在の国道140号線にほぼ沿った道で、熊谷から小前田、寄居、野上、秩父大宮、大滝を通り、雁坂峠を越えて広瀬に出て、川浦、七日市、小原西、甲府へと至るルートです。尚、江戸からは川越、高坂、小川を通り粥新田峠(かゆにたとおげ)を越えて秩父に至る「川越通」のルート、また所沢、飯能(はんのう)、吾野(あがの)を通り正丸峠を越えて秩父に至る「吾野通」のルート、更には寄居、折原を通り釜伏(かまぶせ)峠を越えて三沢、大野原を経て秩父に至るルートもありました。甲州街道については、追って説明しますが、江戸から甲府に至る道として、秩父往還は大菩薩峠を越える青梅往還とともに重要な街道でした。

 

秩父往還は古代から甲斐国と武蔵国の往来によく利用され、ヤマトタケルノミコトが東征の際に甲州酒折宮から雁坂峠を越えて秩父往還を通り武蔵国へ入ったと伝えられています。中世から近世にかけては秩父観音霊場34カ所巡礼、三峰山、富士山、身延山久遠寺への参詣等、信仰の道としても賑わい、戦国時代には甲斐・武田氏の北武蔵攻略の軍用路としても利用されました。

 

江戸時代に入り、徳川幕府は栃本関所で通行を取り締まり、寛永20年(1643年)に栃本関所の警備を補う形で秩父往還沿いの麻生にも加番所を設置しました。秩父往還は東海道の箱根の関所、中山道の碓氷の関所の中間に位置する道でもあり、厳重な取締りが行われ、大達原(おおだはら)に高札場が設けられていました。また、秩父側の栃本と甲斐側の甲州にそれぞれ口留番所が置かれ、牛馬による米穀や繭の輸送に利用されていました。山に囲まれた秩父地方は、山間村落の養蚕によって生糸や絹織物が生産され、秩父往還は諸国の絹商人が往来するなど、日本のシルクロードとしての役割も担っていました。

 

高見澤

2021年1月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

このブログ記事について

このページは、東藝術倶楽部広報が2019年4月23日 09:07に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20190422:栗よりうまい十三里-中山道の脇往還「川越・児玉往還」」です。

次のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20190424:越後と関東を結ぶ大動脈-「三国街道」」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ