東藝術倶楽部瓦版 20190424:越後と関東を結ぶ大動脈-「三国街道」

 

おはようございます。東京池袋、神戸市三ノ宮、千葉県木更津市と、ここ数日の間に死者を出す痛ましい交通事故が立て続けに発生し、大きく報道されています。高齢者ばかりでなく、働き盛りの人でもボーッとしていて、知らず知らずのうちに事故を起こしてしまうようですが、東京の街を歩いていると、いつ事故を起こしてもおかしくないなと感じる状況を頻繁に目にします。スマホ歩きはもちろんのこと、狭い歩道を横に並んで、前から人が来ているのに避けようとする素振りもしない。こんな連中が車を運転していたら...と思うと、ゾッとするのは私だけではないはずです。ボーッとしていると、そこに「魔」が入り込み、取り返しのつかない事故につながることを、肝に命じておきましょう。

 

さて、本日は「三国街道」について紹介したいと思います。三国街道は、中山道の上野国高崎(現在の群馬県高崎市)から分かれ、「北陸街道」の越後国寺泊(現在の新潟県長岡市)へ至る道です。中山道を高崎宿で分岐したこの街道は、渋川宿(群馬県渋川市)、中山宿(群馬県高山村)、永井宿(群馬県みなかみ町)などを経て三国峠を越えて越後国に入り、湯沢宿(新潟県湯沢町)、六日町宿(新潟県南魚沼市)、長岡宿(新潟県長岡市)などを通り寺泊まで通じていました。

 

古来、三国峠は関東と越後(新潟県)を結ぶ交通路として利用され、戦国時代には上杉謙信も関東遠征の際にこの峠を越えていました。標高1,244メートルの三国峠ですが、豪雪地帯ということもあり、特に冬場の通行は困難を極め、馬は使えず人足に頼り、夏場の5~6倍の人数を必要としていました。浅貝(あさかい)宿、二居(ふたい)宿、三俣(みつまた)宿〔いずれも新潟県湯沢町〕は伝馬稼ぎのみを目的として置かれたことから、「三国峠越え三宿」と呼ばれていました。

 

三国街道は、江戸時代には長岡藩、与板(よいた)藩、村松藩などの越後の諸大名が参勤交代に利用したほか、佐渡奉行などの役人や佐渡金山に送られる無宿人足、越後から関東への行商人、上州草津への入湯者等もこの街道を使うなど、重要な街道として認識されていたようです。現在では国道17号線の一部となっており、昭和36年(1961年)に三国トンネルが開通したことによって、太平洋側と日本海側を結ぶ大動脈として重要な役割を果たしています。

 

尚、三国街道の「三国」の語源は、越後、信濃、上野の三国の一宮(諸国で最も格式の高い神社)を祀る「三国権現」、いわゆる「境の明神」からきているようです。越後の一宮は彌彦(いやひこ)神社〔新潟県弥彦(やひこ)村〕、信濃の一宮は諏訪大社〔長野県諏訪地方〕、上野の一宮は赤城神社〔群馬県前橋市〕です。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年4月24日 09:27に書いたブログ記事です。

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