おはようございます。今朝の東京都心は雨ですが、傘をさすかさすまいか、迷うほどの小雨でした。当方の職場も5月1日からクールビズのお達しが出され、上着もネクタイも不要の状況下で業務に勤しめることになります。オフィスもすでに冷房が入り、人によって暑さ寒さの感覚が違うものですから、温度調整や冷風の風向き調整にも難儀しています。これもまた、現代風の季節の変わり目の風物詩なのかもしれません。
さて、本日もまた中山道の脇街道の一つ、「北国街道」について紹介したいと思います。日本全国においては、北国街道と呼ばれる道は複数存在しています。畿内から越後国の直江津を結ぶ道としての「北陸道」、直江津から渟足柵(ぬたりのき/ぬたりのさく)〔現在の新潟市東区〕、更にはその先の鼠ヶ関(ねずがせき)〔現在の山形県鶴岡市〕まで、或いは更に北に向かう道も北国街道と呼ばれることがありますが、ここではあくまでも中山道に直結する信越地方の北国街道のことを指します。
この江戸時代に幕府によって整備された中山道の脇街道としての「北国街道」は、「北国脇往還」、或いは「善光寺街道」などとも呼ばれていました。中山道の信濃国・追分で分岐し、善光寺(長野県長野市)を経て直江津で北陸道に合流する道です。また、その先の北陸道・出雲崎(新潟県出雲崎町)または新潟湊までを含めて北国街道と呼ぶ場合もあります。
軽井沢町から上越市までは、現在の国道18号線にほぼ相当しています。追分宿で中山道から分岐した北国街道は、小諸宿、上田宿、屋代宿を経て善光寺宿に至り、その後は牟礼(むれ)宿、野尻宿等を通って越後に入ります。越後に入ってからは関山宿、荒井宿等を経て高田宿に至ります。善光寺平(ぜんこうじだいら)〔長野盆地〕の入り口の屋代宿を過ぎると、「雨宮の渡し」で千曲川を渡ることになりますが、川を渡らずに松代宿、福島宿を経て牟礼宿で本道と合流する「松代道」と呼ばれる脇道があります。この道は、谷街道の一部と重なり、犀川の川止めで本道が足止めされた際に、「布施の渡し」で千曲川を渡って福島宿へと迂回することが目的のルートとなっていました。
小諸宿と上田宿の間にある田中宿と海野宿、坂木(さかき)宿と屋代宿の間にある上戸倉宿と下戸倉宿、牟礼宿と野尻宿の間の古間宿と柏原宿、野尻宿と関山宿の間にある関川宿と上原宿及び田切宿と二俣宿、関山宿と荒井宿と二本木宿は、「合宿(あしゅく)」といって、二つの宿場で1セットの役割を果たしていました。また、上田宿と坂木宿の間にある鼠(ねずみ)宿、及び屋代宿と丹波島(たんばじま)宿の間にある篠ノ井追分宿は「間の宿(あいのしゅく)」といって、幕府や藩の非公認の宿もありました。
篠ノ井宿から分岐して松本を経て木曾谷の北端にある洗馬(せば)で中山道に合流する道を「北国西街道」と呼んでしました。この道も善光寺に参詣する人が多く通ったことから、北国街道本道と同じように「善光寺街道」とも呼ばれていたようです。
北国街道が整備された主な目的は、前述したように善光寺への参拝と江戸幕府の財政を担った佐渡の金を江戸まで運ぶためであり、五街道に次ぐ重要な街道として位置付けられていました。加賀藩、高田藩が江戸に出仕する際には、この北国街道を利用したようです。
高見澤