東藝術倶楽部瓦版 20190527:阿波に通じる「阿波街道」

 

おはようございます。5月下旬だというのに、この暑さは尋常ではありません。先週北京では最高気温38℃の中を3キロ余り歩いたこともあって、東京が3233℃といってもさほど暑くは感じなかったのですが、さすがに週末から今日にかけての暑さでは体調を崩す人がいてもおかしくはありません。この暑さの中、訪日中の米国トランプ大統領のために駆り出される警察官の皆さんもさぞ大変なことだと思います。あと二日間、頑張ってください。

 

さて、本日は「阿波街道(あわかいどう)」について紹介したいと思います。比較的限られた範囲ではあるものの、険しい山々やそれなりに大きな川が縦横に流れる四国には、讃岐、阿波、伊予、土佐という4つの国が存在し、それぞれの国を結ぶ街道が整備されていました。前回、前々回紹介した金毘羅街道や讃岐街道も他国に通じる重要な街道でした。ただ、限られた範囲という点で、出発する地点や向かう方向によって、同じ街道を別の呼び方をしているにすぎないということも、ご理解いただければと思います。

 

阿波街道もまた、讃岐街道と同様に他国から阿波国に通じる道を指すのと同時に、阿波国内を繋ぐ短い距離の街道も指していました。一般に阿波街道といった場合、大坂峠(志渡街道)、鵜の田越、境目など阿讃山脈を越えて讃岐国と阿波国を結ぶ讃岐街道を指し、讃岐側からみるとこれが阿波街道となったわけです。

 

阿波街道にも「阿波五街道」と呼ばれる5つの主要な街道がありました。いずれも徳島城の鷲の門を起点にした街道です。「淡路街道」、「讃岐街道」、「撫養(やむ)街道」、「伊予街道」、「土佐街道」です。このうち、讃岐街道は前回説明した志渡街道のことなので、ここでは省略します。

 

淡路街道は、徳島城鷲の門から、当時商業港として栄えていた撫養岡崎の渡(鳴門市)に至る4里(約16キロメートル)の道で、岡崎の渡からは船で淡路国福良(ふくら)〔兵庫県南あわじ市〕に渡りました。途中、古川渡し(別宮川)、鯛浜渡し(今切川)、東馬詰渡し(吉野川)、林崎渡しの4カ所の渡し場があったとされています。

 

撫養街道は、前回も少し紹介しましたが、商業港の撫養岡崎の渡しと池田町を結ぶ約67キロメートルの道です。藍、塩、葉タバコ、木材など、当時の産業を支えた物資を運ぶための道として、徳島藩主・蜂須賀家政が整備した街道です。四国巡礼に来た「お遍路さん」は、岡崎港に上陸し、撫養街道を通って西に向かったとのことです。

 

伊予街道は、徳島城鷲の門から吉野川の南岸沿いに西に向かい、石井、川島、穴吹、半田、井川、池田を経て伊予国川之江(愛媛県川之江市)に至る街道です。阿波国と伊予国を結ぶ重要な幹線道路として発展していました。

 

土佐街道については、次回詳細に紹介したいと思いますが、阿波五街道の一つとしての五街道は、徳島藩が整備した徳島から海沿いを通って高知に至る道のことを指します。徳島城鷲の門を出て、立江(たつえ)、羽ノ浦(はのうら)を経て古庄(ふるしょう)で那賀川を渡り、桑野、由岐、日和佐、宍喰浦(ししくいうら)を経て土佐国の甲浦(かんのうら)へ至り、そこから室戸、安芸、赤岡を通って高知に至ります。

 

こうした阿波五街道の他にも、五街道など分岐して峠道を越える脇街道がありました。撫養街道から分岐して讃岐国に抜ける板西郡の宮河内越え、阿波郡の日関谷越え、美馬郡の曽江谷越えなど、13カ所の峠越えが記録に残っているようです。

 

狭い範囲の上に、山あり川ありの複雑な地形を利用して交通を便利にするためには、各藩相互の協力があってはじめて成り立つのかもしれません。これもまたユートピア江戸ニッポンの大きな特徴です。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年5月27日 09:07に書いたブログ記事です。

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