東藝術倶楽部瓦版 20190528:土佐に通じる「土佐街道」

 

おはようございます。米国トランプ大統領の日本滞在で、物々しい警備が敷かれている東京都内ですが、最終日とあって今朝は昨日ほどの緊張感はないように思えます。とはいえ、最後まで気が抜けないのが外国要人警護の役目です。本日午後は私の所属先の決算理事会及び評議委員会があり、日本経済界を代表する重鎮が顔を揃えます。資料作成に気を抜けないのが私の役目です。明日29日からは宮城県仙台市で開催される日中経済知識交流会に参加のための出張で、31日に東京に戻ってきます。今週は、瓦版もお休みさせていただきます。ご了承ください。

 

さて、本日は「土佐街道(とさかいどう)」について紹介したいと思います。土佐街道もまた、讃岐街道や阿波街道と同じように、土佐国(高知県)に通じる複数の道を指します。その中には、すでに金毘羅街道や阿波街道のところで紹介した道もありますので、重複を避けながら説明していきます。

 

伊予国松山と土佐国高知を結ぶのが別名「松山街道」と呼ばれる土佐街道の一つです。松山から三坂峠を越え、久万(くま)、七鳥(ななとり)を経て土佐側の池川に出ます。その後、佐川、伊野などを経由して高知に至る道です。概ね現在の国道33号に沿っていますが、久万と高知側の大崎の間は仁淀川沿いから外れて、現在の愛媛県道12号、国道494439号を通るルートでした。この街道の最大の難所は標高720メートルの三坂峠で、幅員が狭く、最大8%の勾配とつづら折れの場所があるそうです。

 

伊予国川之江と高知を結ぶ道が別名「土佐北街道」と呼ばれる土佐街道の一つです。現在の愛媛県川之江市から新宮(しんぐう)、馬立(うまたて)を経て笹ヶ峰峠を越え、土佐側の立川に出て、本山町などを経て高知城下に至る街道です。記録によると延暦16年(797年)に北山官道として開かれたそうです。享保3年(1718年)以降、土佐藩主・山内氏がこの街道を参勤交代に使用しています。また、川之江から先の琴平までは「伊予・土佐街道」として、金毘羅参りに多くの土佐の人が利用したことは以前紹介した通りですが、土佐から川之江までは、この土佐北街道が使われていたのです。

 

阿波国と土佐国を結ぶ土佐街道は、「土佐浜街道」や「土佐東街道」とも呼ばれていますが、この道は前回紹介した徳島藩が整備した阿波五街道の一つである土佐街道のことを指します。ということで、ここでの説明は省略します。

 

上記の土佐浜街道を途中の橘(徳島県阿南町)から分岐して内陸に入り、四国山地の四ツ足峠を越えて高知に至る道を「土佐中街道(とさなかかいどう)」と呼んでいました。橘から内陸に入った土佐中街道は、桑野川沿いを西に向かい、鷲敷(わじき)から那賀川沿いに丹生谷(にゅうのや)を経て四ツ足峠を越えて土佐側に入ります。土佐側では物部川沿いに大栃(おおとち)、美良布(びらふ)、山田、後免(ごめん)を経て高知に至ります。現在は国道195号に相当する道で、阿波と土佐を山道で結ぶルートでした。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年5月28日 10:29に書いたブログ記事です。

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