おはようございます。昨日から降っていた雨も、今朝になってからは止んでいます。一雨ごとに寒さが増していくことでしょう。今、今年最強の大型で猛烈な台風となった台風19号が発達しながら北上を続け、その後、多少は弱まるものの強い勢力を保ったまま、今週末には日本を直撃するものと思われます。台風15号による被害が癒えない中で、更なる台風の襲来は不安がつのるばかりです。人々に恵みをもたらす自然も、時には猛威ももたらします。自然とどううまく付き合っていくか、今こそ人々の知恵が試される時なのかもしれません。
さて、本日は主に大坂の港湾や河川で活躍していた「上荷船(うわにぶね)」と「剣先船(けんさきぶね/けんざきぶね)について紹介したいと思います。
貨物の出入りの多い港湾にあって、沖に停泊した廻船の荷物を陸岸まで輸送する瀬取り船(茶船)の中で、主に大坂で使われていた船を上荷船と呼んでおり。その大きさは20石積ないしは30石積程度でした。喫水が浅く造られており、河川での航行が可能なため、大坂から京都にかけての川筋を往来して荷物を運んでいました。淀川で過書船(かしょぶね)〔「過書(かしょ)」と呼ばれる運航手形を所持している船〕とともに就航していた川船は、特に「淀船/淀舟」あるいは「淀上荷船(よどうわにぶね)」と呼ばれていました。
一方、剣先船は「劍峰船」とも書かれ、江戸時代初頭以降、大坂、特に大和川水域で使用された川船です。もともと大和川は大和、河内、摂津の間の重要な水利交通路で、河内平野を北上して淀川に合流していました。江戸時代初期頃にその川底が浅くなり、通常の上荷船の運航が困難になりました。このため、浅い川底でも運航可能なもっと浅い喫水の船が求められるようになり、この剣先船が誕生したのです。
剣先船は舳先を剣先のように細長く尖らせて、船体は横に平たい船型となっていることから、この名前が付けられました。長さは45尺余(約14メートル弱)、深さは4尺(約42センチメートル)でした。
正保3年(1646年)に江戸幕府から認可された上荷船茶船仲間の211艘を「古剣先船」、延宝3年(1675年)に認可された大坂の尼崎安清所有の100艘を「新剣先船」、更に貞享3年(1686年)に認可された大和川沿岸の村民の船78艘を「在郷剣先船」とそれぞれ称し、この計389艘が就航して大和川流域の商品流通に大きな役割を果たしていました。宝永年間(1704年~1711年)に、大和川が大坂湾に直に注ぎ込むよう改修された後もこれらの船は用いられていました。
高見澤