東藝術倶楽部瓦版 20191009:【江戸の乗り物その29】湯船の語源はここにあり!-「江戸湯船」

 

おはようございます。今週月曜日から今年のノーベル各賞の受賞者の発表が行われています。月曜日が生理学・医学賞、火曜日が物理学賞、本日水曜日が化学賞、明日木曜日が文学賞、明後日金曜日が平和賞です。そして来週月曜日が経済学賞ですが、この経済学賞は正式なノーベル賞ではありません。以前、どこかで説明した記憶がありますが、また何かの機会があれば改めて紹介しましょう。

 

さて、本日は「江戸湯船(えどゆぶね)」について紹介したいと思います。今では、浴室にある浴槽(バスタブ)のことを「湯船」と呼ぶ人は少なくなったかと思いますが、それでも「湯船に浸かる」などという表現はよく使われます。浴槽が湯船と呼ばれるようになったのは、実は江戸時代に湯船と呼ばれた船があったからなのです。

 

日本において、今のようにお湯に浸かるという入浴方法が生まれたのは安土桃山時代のことで、それまで貴族はお湯に浸からずサウナのような蒸し風呂に入っており、庶民は水で体を洗う行水が一般的でした。これが、江戸時代中期になると庶民もお湯に浸かる習慣が広まったとされています。

 

とはいえ、当時は庶民の家に風呂などなく、専ら銭湯に行かざるを得なかったのですが、それでも銭湯は街の中心部にしかなく、数も限られていました。そこで流行したのが「湯船」です。河川を利用して街外れへと出向き、人々に銭湯を提供していました。いわゆる「移動式銭湯」です。当初は小舟にたらいを積んだ行水船でしたが、次第に改良されて屋形舟形式の湯船になりました。入浴銭をとって湯を提供していたことから「銭湯」、とういう想像はできますよね。

 

この湯船は、後に廻船の出入りの激しい繁華な港で、廻船の乗員・乗客のために銭湯を提供するようにもなります。特に江戸の川筋で行われていたので、江戸湯船が代表的なものとされていました。船の中央に浴槽が据えられ、入浴料は4文(約66円)で、一般的な銭湯の半値だったようです。当時の江戸の大工の日当が540文(約9,000円)、米が一升100文(約165円)、そばが一杯16文(300円弱)でしたから、比較的安価で湯を楽しむことができたわけです。風呂上りに船上で涼むこともでき、さぞかし心地良かったことでしょう。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年10月 9日 09:30に書いたブログ記事です。

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