東藝術倶楽部瓦版 20191023:【江戸の川その1】江戸時代以前の江戸の主な川筋

 

おはようございます。昨晩、出張先の北京から戻ってきました。最初は帝京大学と中国の河南大学との共同研究プロジェクトに参加し、黄河流域の経済発展・地域開発に関するシンポジウムでの講演と現地調査、その後北京に移動して清華大学MBAでの講演、更に中国政府の諮問機関である国務院発展研究センターでの来年の日中経済知識交流会開催に関する会議と、かなり重厚な3つのタスクを終えてきました。その間も東京本部からの複数の別件事業の相談、明後日の筑波大での講義資料などの作成もしながらの対応でしたので、土日を挟んでいても決して休まる時間もありませんので、正直いってクタクタの状態で帰国した次第です。出張中、中国の第3四半期のGDPが6%となったとの発表があり、数字面では経済減速が明らかになっています。確かに一部ではそのような面も感じられますが、人々の消費意欲は依然として高く、これだけの経済規模となっているにもかかわらず、6%の経済成長を維持していることは驚異的と言えるでしょう。中国経済については色々な見方があるかと思いますが、凄いことは凄いと認める客観性をもって評価することが大事です。

 

さて、 本日からは江戸の人々の生活に欠かせない「江戸の川」について紹介していきたいと思います。

 

現在、東京を流れる主な河川といえば、隅田川、荒川、江戸川、目黒川、多摩川などの名前が頭に浮かんでくるかと思います。東京に住んでいる人であれば、大体の位置関係は分かるかと思いますが、江戸時代以前の時代のこうした河川の流れは、現在とは大きく異なっていました。

 

江戸と呼ばれる地域の最も東側を流れていたのは「太日川(ふとゐがわ)〔江戸川〕」で、この川はもともと「渡良瀬川(わたらせがわ)」の最下流にあたっていました。今でこそ渡良瀬川は利根川の支流の一つになっていますが、当時の渡良瀬川は独立した河川として江戸湾に流れ込んでいました。

 

以前、「利根川東遷事業」について簡単に紹介したことがあります。文禄3年(1594年)から始まったこの大工事が完成するまで、利根川は太日川の西側を流れて江戸湾に通じていました。現在「古利根川(ふるとねがわ)」として残っている川筋から「旧中川」に沿った流れで、これが当時は利根川の本流でした。

 

この昔の利根川に合流していたのが「荒川」です。荒川は利根川の支流として、昔から「暴れ川」として恐れられていました。頻繁に洪水が起こり、その度に流路が変わってしまっていたようです。この荒川の川筋を変える工事が「荒川の瀬替え」と呼ばれる一大プロジェクトでした。これについては、また日を改めて説明しようと思います。

 

江戸の人たちに最も馴染のある川は、やはり何といっても「隅田川」でしょう。現在の隅田川は、荒川の支流の扱いとなっていますが、昔は「入間川(いるまがわ)」の下流として独立した河川となっていました。この隅田川の流れも江戸時代の瀬替えによって大きく変わってしまいました。

 

次回からは、江戸時代の各河川の流れと、川筋を変えるほどの大工事であった瀬替え等について紹介していきたいと思います。

 

高見澤

2021年1月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

このブログ記事について

このページは、東藝術倶楽部広報が2019年10月24日 08:31に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20191011:【江戸の乗り物その31】江戸時代の小型快速船-「押送船」」です。

次のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20191024:【江戸の川その2】江戸河川物流の大動脈と庶民の憩いの場所-「隅田川」」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ