東藝術倶楽部瓦版 20191024:【江戸の川その2】江戸河川物流の大動脈と庶民の憩いの場所-「隅田川」

 

おはようございます。今日は二十四節気の一つ「霜降」です。9月の中気ということで、次はいよいよ10月の節気「立冬」、つまりあと2週間も経てば暦の上では冬というわけです。今朝も大分寒くなったとはいえ、夏用のジャケットを羽織って出勤するだけで汗ばむ状態でした。明日は筑波大学で講義があるため、またまた瓦版もお休みさせていただきます。ご了承ください。

 

さて、本日は「隅田川(すみだがわ)」について紹介したいと思います。隅田川は、江戸の人々にとって、最も親しみのある川といっても言い過ぎではないでしょう。

 

現在の隅田川は、東京都北区の岩淵水門志茂で荒川から分岐し、荒川区、足立区、墨田区、台東区、江東区、中央区を通って東京湾に注ぐ全長23.5キロメートルの一級河川となっています。古くは「墨田川」、「角田川」、「住田川」とも書かれています。岩淵水門のすぐ近くで新河岸川(しんがしがわ/しんかしがわ/しんがしかわ)が、続いて石神井川、神田川、日本橋川等の支流河川と合流します。ちなみに、荒川の源流は奥秩父の甲武信ケ岳(こぶしがたけ)です。

 

もともと隅田川は、旧入間川が江戸湾に流れ込む独立した入間川の下流でしたが、江戸時代に「荒川の瀬替え」によって荒川の本流とされてきました。昭和に入って、荒川の分流となり、隅田川が正式名称として使われるようになりました。

 

古来、隅田川は武蔵国豊島郡と下総国葛西郡との境を流れており、国境を示す川でもありました。浅草辺りでは「浅草川」、駒形辺りでは「宮戸川(みやとがわ)」と呼ばれることもありましたが、江戸時代以降、一般的には吾妻橋周辺より下流を「大川(おおかわ)」と呼んでいました。江戸時代、隅田川が荒川の本流になったのは、寛永6年(1629年)に荒川を旧入間川に付け替える荒川の瀬替えが行われてからです。

 

同時に、現在の河口への河道へほぼ一本化され、江戸の河川舟運に重要な役割を果たすことになります。浅草茅町河岸、新柳河岸、元柳河岸、浜町河岸、尾上河岸、稲荷河岸、湊河岸、船松河岸など、多くの船着き場が設けられたほか、両岸にはたくさんの運河が掘られるなど、物流の重要な大動脈として利用されていました。また、隅田川は清流としても有名で、大川端は納涼、川開き、花見など憩いの場所としても人気を博し、屋形船が頻繁に往来し、川開きの花火の際には多くの人で賑わいました。

 

現在、隅田川には上流から千住大橋、水神(すいじん)大橋、白髭(しらひげ)橋、言問(こととい)橋、吾妻橋、駒形橋、厩(うまや)橋、蔵前橋、両国橋、新大橋、清洲橋、永代橋などが架かり、河口は佃(つくだ)で分流し、東側は相生(あいおい)橋、春海(はるみ)橋、西側には佃大橋、勝鬨(かちどき)橋などが架かっています。しかし、江戸時代は江戸の防衛上の理由から、千住大橋〔文禄3年(1594年)〕、吾妻橋〔安永3年(1774年)〕、両国橋〔万治2年(1659年)〕、新大橋〔元禄6年(1693年)〕、永代橋〔元禄11年(1698年)〕の5本の橋しか設けられませんでした。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年10月24日 08:35に書いたブログ記事です。

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