東藝術倶楽部瓦版 20200109:【江戸の川その31】流路の大半が失われた幻の「六郷用水」

おはようございます。一昨日、昨日と所用で瓦版がお送りできず、失礼しました。来週もまた、日曜日から金曜日まで中国出張で瓦版がお送りできません。ご了承ください。今回、出張するのは上海、江蘇省の蘇州、そして河南省の鄭州です。河南省は、今騒がれているウイルス性肺炎の流行している武漢のある湖北省の隣です。今のところ鄭州での流行が確認されているわけではないので、それほど心配はしていませんが、それでも油断せず慎重に行動しようと思っています。世界中で蔓延する感染症は昔から存在していましたが、新たなウイルスによる病気の蔓延は、人為的な要因も含め不可思議なことが多すぎます。どのような状況においても、自分自身の抵抗力を高めることが何より大事かと思います。

 

さて、本日は「六郷用水(ろくごうようすい)」ついて紹介しようと思います。六郷用水は、かつて武蔵国に存在した農業用水路で、現在はその流路の大半が失われて「幻の六郷用水」と呼ばれています。

 

六郷用水は、慶長2年(1597年)に徳川家康が用水奉行の小泉次大夫に命じて開削を開始し、15年の歳月をかけて完成させました。前回紹介した「二ケ領用水」と同じ時期に開削が進められ、同用水と合わせて「四ケ領用水」とも呼ばれていたこと、小泉次大夫の名をとって「次大夫堀(じだゆうぼり)」と呼ばれていたことは、すでに説明した通りです。開通から100年を経過したころには、大分老朽化していたようですが、享保9年(1724年)から同10年(1725年)に代官・田中丘隅(休愚)の手によって、二ケ領用水と並行して改修が行われました。

 

多摩郡和泉村(東京都狛江市元和泉)の多摩川から取水された六郷用水は、世田谷領に入って野川、仙川、谷沢川などを合流して六郷領に入ります。六郷領では、難工事だった女堀(おんなぼり)を通過して、鵜木村(東京都大田区鵜の木)から矢口村(大田区矢口)に至り、そこで南北に引き分けられます。南堀は鎌田、六郷、糀谷(こうじや)方面〔いずれも大田区〕に流れ、北堀は池上、堤方(つつみかた)、新井宿、不入斗(いりやまず)〔いずれも大田区〕に至って東京湾に流入していました。世田谷領内では14カ村、六郷領内では35カ村、合計49カ村、約1,500ヘクタールの田地を潤しました。

 代以降、当該地域の都市化が進んだことで六郷用水の灌漑用水としての役割は終わり、昭和20年(1945年)に六郷用水は廃止されることになります。大半は埋め立てられたか、或いは雨水用の下水道となるなどして失われてしまいました。現在、一部区間が丸子川として残っているほか、湧水を使った用水路が再現されたり、水辺の散策路として整備されたりしている部分があります。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年1月10日 09:04に書いたブログ記事です。

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