東藝術倶楽部瓦版 20200127:【江戸の川その37】伊達政宗も整備に関与-「神田川」(下)

おはようございます。この週末のニュースをみても、中国で感染が広まっている新型肺炎の話題で持ち切りです。日本政府は閉鎖されている湖北省武漢市にチャーター便を飛ばし、現地に滞在する日本人を帰国させる措置をとることを決めました。武漢には知り合いもおり、物資が不足するなど状況は気になるところですが、中国政府をはじめ各国がここまで大騒ぎするほど深刻な状況なのかは、実態がつかめないだけによく分からないところです。

 

さて、本日も前回に続いて「神田川」を紹介していきたいと思います。

 

二代将軍・秀忠の時代になり、旧平川下流域の洪水対策と外濠機能の強化を目的として、現在は本郷台地となっている神田山にぶつかって南流していた流路を東側に付け替える瀬替えの工事が行われました。その後、元和2年(1616年)には、秀忠は仙台藩祖の伊達政宗に命じて牛込橋付近(飯田橋駅)から和泉橋(秋葉原駅)までを開削させます。小石川見付(三崎橋)から東に神田山を切り通したことで、現在のような湯島台と駿河台が分けられるようになりました。そこにできたのがお茶の水の人工谷、「茗渓」です。旧東京教育大(現筑波大)の施設「茗渓会館」の名称、筑波大OB会の名称が「茗渓会」なのも、ここに由来があります。話がずれましたが、このためこの区間は特に「仙台堀」、或いは「伊達堀」と呼ばれています。

 

本郷台地の東側では、旧石神井川と合流させて東流し、隅田川につなぎました。その後幕府は、洪水対策と河川舟運に活用するために、万治3年(1660年)に川幅拡張工事を行います。この工事を担当したのが、仙台藩第4代当主の伊達綱村です。この拡幅された堀割から河口までを神田川と呼びました。これにより、船河原橋(飯田橋)まで河川舟運が通じることになりました。

一方、小石川見付から南流する旧平川の方は、九段下付近まで埋め立てられて神田川と切り離され、堀留となりました。かつては、外濠であった旧平川も内濠となり、「飯田川」と呼ばれて、道三堀からの河川舟運を導いて多くの河岸が立ちました。それでも川の氾濫は治まらず、筋違橋御門から下流の神田川南岸に築土して「柳原土手」を作り、洪水対策を施しました。

 

明治以降、神田川の河川舟運は更に活発になります。上流から紅梅河岸、昌平河岸、佐久間河岸、鞍地河岸、柳原河岸、左衛門河岸など多くの河岸が立ちました。その後、一部の流れが日本橋川となるのですが、このお話はまた別途行います。戦後、高度経済成長期には生活排水の流入により水質が著しく悪化し、「死の川」と呼ばれるほどになりましたが、その後の下水道整備と排水処理場の設置により、近年は水質が大幅に改善されています。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年1月27日 09:11に書いたブログ記事です。

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