おはようございます。中国の新型コロナウイルス感染に対して、いよいよWHOが「国際緊急事態」宣言を発表しました。ここ数日は1,000人規模で増え続ける中国での感染者数は8,000人を超え、171人が死亡、日本でも感染者が14人に達しています。米中対立や香港のデモの話題は影が薄くなり、中国関連のニュースはこのウイルス問題で持ち切りです。このニュースの裏で一体何が起きているのでしょうか? 来週月曜日、火曜日は朝から所用があり、瓦版もお休みさせていただきます。ご了承ください。
さて、本日は「上下之割用水(かみしものわりようすい)」について紹介しようと思います。江戸時代、隅田川東側の用水確保のために、「小合溜井(こあいためい)」を水源とする用水路が開削されました。これが上下之割用水で、「大用水」、「大井堀(おおいぼり)」とも呼ばれています。
小合溜井は、享保14年(1729年)に八代将軍徳川吉宗の命により、紀州藩士・井沢弥忽兵衛(いざわやそべい)が古利根川の一部を堰き止めて作った用水池です。今の東京都葛飾区と埼玉県三郷市の県境〔葛飾区水元〕に位置しています。江戸川区近辺の村々は、江戸時代を通じて羽生領川俣用水組に属していましたが、流末であったため、そもそも用水供給が安定していませんでした。この用水池を作ったきっかけは、前年の享保13年(1728年)に発生した水害で、灌漑用水確保とともに水害防止も設置する目的の一つとなっていました。
下小合村にある小合溜井の圦樋(水門)から引かれた上下之割用水は南側に流れ、新宿(にいじゅく)〔葛飾区新宿四丁目〕で東側に「小岩用水」を振り分け、本流は少し下った曲金村(まがりかねむら)〔葛飾区高砂七丁目〕で「東井堀(ひがしいぼり)」〔東用水〕を分水します。その後、細田字三角〔葛飾区細田三丁目付近〕で「中井堀(なかいぼり)」と「西井堀(にしいぼり)」に分かれます。
小岩用水は、江戸川区内で上小岩、中小岩、下小岩に至り江戸川に合流していました。東井堀は松本、鹿骨(ししぼね)を貫いて谷河内(やごうち)、南篠崎などの境界を下って、前野から江戸川に合流していました。中井堀は本一色(ほんいっしき)を二分しながら大杉を経て春江と一之江の境界を流れて新川(しんかわ)につながり、西井堀は西小松川から逆井(さかさい)へと南下して中川に注いでいました。しかし、これらの用水は供給が十分であったとはいえず、渇水期には水不足になやまされていたようです。
主として農業用排水路としても利用されていた上下之割用水も今ではその役割を終え、ほとんどが暗渠になっています。
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