東藝術倶楽部瓦版 20200311:【江戸の川その59】三階に三味線堀を三下り二上り見れどあきたらぬ景-「三味線堀」

おはようございます。今日で東日本大震災から9年が経ちます。震災復興も掛け声だけで遅々として進まず、原発の事故処理に至っては先がまったく見えていない状態で、福島ではまだ4万超の人が避難生活を送っています。これだけ酷い状態が続いているにもかかわらず、相変わらずの体制で問題解決を図ろうする政府や東電の姿勢は理解できないし、専門家と言われる研究者の無能さを指摘せざるを得ません。そして何よりもそれを良しとしている国民の愚かさにも呆れるばかりです。日本という国の衰退の兆候が各所で見えているのも納得できるわけです。

 

さて、本日は「三味線堀(しゃみせんぼり)」について紹介したいと思います。三味線堀については、前回の忍川で、不忍池より流れ出た水が忍川を通って三味線堀を経由して鳥越川、そして隅田川に流れ込むとの説明を行いました。

 

三味線堀は、現在の清洲橋通りに面して、小島一丁目の西端に南北に広がっていました。台東区の説明によると、寛永7年(1630年)に鳥越川を掘り広げられて造られ、その形状から三味線堀と呼ばれたとあります。また、一説に浅草猿屋町(浅草橋)の小島屋という人物が、この土砂で沼地を埋め立て、それが小島町になったとのことです。

堀には二つの船溜まりがあり、下肥、木材、野菜、砂利などを輸送する船が隅田川から往来していました。二つの船溜まりは東西約50メートル、南北約30メートルで、それを長さ190メートル、幅10メートルの堀割でつないでいました。

 

堀の西側には秋田佐竹藩の上屋敷があり、天明3年(1783年)に三階建ての高殿が建設されました。これにちなんで大田南畝は、「三階に三味線堀を三下り二上り見れどあきたらぬ景」という狂歌を残しています。

 

江戸から明治にかけて物資の集散所として賑わっていた三味線堀も、明治末期から大正にかけて、市街地の整備や陸上交通の発達に伴い、次第に埋め立てられていき、大正6年までにはほとんど埋め尽くされてしまいました。今は、台東区設の三味線堀市場の名称だけが残っています。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年3月11日 11:28に書いたブログ記事です。

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