東藝術倶楽部瓦版 20200402:【江戸の川その68】江戸城普請のための水路-「道三堀」

おはようございます。コロナウイルス感染拡大がいろいろなところで影響を及ぼしています。石油業界では、経済の停滞による石油需要の大幅な落ち込みとサウジアラビアやロシア等産油国の大増産により原油価格が大暴落。世界中の原油貯蔵タンクがほぼ満杯の状態で、割高なタンカーによる海上備蓄もギリギリのレベルまで積み増しが行われているとのことです。米国テキサス州の零細油田群では、採掘した原油をパイプラインで輸送することができず、デッドストック(非商品在庫)寸前の状態にあり、このままだと採掘業者も稼働停止に追い込まれる事態に直面しているようです。これにより、原油価格の高値推移で生産を続けてきた米国のシェール業者は需要減退とコストが見合わないことから、相次いで倒産することになります。世界を揺るがす未曽有のコロナウイルスによるパンデミック危機は、世界経済の仕組みそのものを変えてしまうかもしれません。

(昨日の瓦版のタイトル番号に齟齬があり失礼しました。本日の瓦版を【江戸の川その68】とし、昨日の番号はそのままとしたいと思います。次回は【その70】でお届けします。)

 

さて、本日は「道三堀(どうさんぼり)」について紹介してみようと思います。道三堀は、江戸城の和田倉門から平川(日本橋川)河口の呉服橋門まで開削された運河で、その先は日本橋川を通じて江戸湊まで続いています。

 

道三堀は、徳川家康が江戸入府して最初に手を付けた水運事業の一つとされています。天正18年(1590年)、江戸城普請のための物資を運ぶ船入り堀とするために、家康は開削を命じます。現在の皇居東にある和田倉門から辰の口(現在のパレスホテル辺り)、そして現在の大手町駅前交差点を通り、呉服橋交差点と常盤橋の間辺りで平川に合流させました。その開削で出た土砂は埋め立てに利用されました。

 

開削当時、道三堀の両岸には四日市町(定期市)、木材町、舟町、柳町(遊郭)などが設置され賑わいを見せたと言われています。日比谷入江が埋め立てられた後も、江戸城ヘの物資の運搬路として活用されていました。道三堀の名の由来は、道三堀の南岸に江戸幕府の待医・二代目曲直瀬道三(まなせどうさん)の屋敷があったからだと言われています。

その距離わずか約1キロメートルですが、大手町駅前交差点のやや東側に道三橋、平川との合流地点に銭瓶橋(ぜにがめばし)が架けられていました。銭瓶橋の名の由来は、道三堀開削の際に銭の入った瓶が掘り出されたという説、この辺りで永楽通宝の両替をしていた(銭替)という説、夜中に江戸城の奥女中が通行切手を持たずに袖の下を使って道三堀から抜け出た(銭買)という説など、諸説あります。

 

この道三堀も明治43年(1909年)には埋め立てられ、今はその影をみることもできません。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年4月 2日 11:18に書いたブログ記事です。

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