おはようございます。コロナ禍による在宅勤務が明けて1週間が経ちました。経済活動が再開し始めた矢先に、また東京の感染者が徐々に増え始めています。ゴールデンウィーク明けの気の緩みが今の結果として現れており、経済活動再開による更なる感染者の増加を懸念する声も聞かれます。正体の未だ掴めぬ新型コロナウイルス。経済と衛生の両立は、果たして今の日本で可能なのでしょうか?
さて、本日は「鉄砲洲川(てっぽうずがわ)」について紹介しようと思います。鉄砲洲川は、「鉄炮洲川」とも書かれ、現在の東京都中央区を流れていた水路です。寛永年間(1624年~1645年)に開削されたと言われ、昭和4年(1929年)に関東大震災の後の瓦礫処理のために埋め立てられました。
鉄炮洲川が流れていたルートは、隅田川から本湊町(中央区湊二丁目)と船松町(湊三丁目)の間から分流して西に入り、新湊町四丁目(湊三丁目)の地先で南に折れて明石町(中央区明石町)を流れて、新湊橋の先で築地川から流れ込んでいた明石堀に合流していました。
鉄砲洲川のあった鉄砲洲は、築地で最後に埋め立てられた地域で、その地形が火縄銃に見立てられてその名が付いた、或いは鉄砲の演習地であったので名付けられたとも言われています。鉄砲洲川に架けられていた橋では、隅田川からの分流地点の鉄砲洲橋、小橋、見当橋(みとめばし)、浦堀橋、新湊橋がありました。
鉄砲洲に設けられた明石町は、明暦の大火以降の築地埋め立ての最中に播磨国明石の漁民が移住した町と言われています。対岸の佃島を淡路島に見立てていたようです。築地川については追って紹介しますが、その一部が明石町側に流れ込むのが明石堀です。明石堀は扇型の入江堀となっており、築地川の南支流の堺橋から明石橋を通って隅田川に合流していました。
明治元年(1868年)、明治新政府は日米通商条約に基づいて築地鉄砲洲の7千坪を外国人居留地として定め、キリスト教宣教師の教会やミッションスクールが置かれていました。青山学院、女子聖学院、明治学院、立教学院などの教育機関はこの地で生まれています。
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