東藝術倶楽部瓦版 20200610:【江戸の川その79】溜池の排水路-「汐留川」

おはようございます。昨日は急用のため瓦版の更新ができず、失礼しました。コロナ騒ぎも大分落ち着いてきたようで、経済活動も徐々に再開されつつあります。とはいえ、海外への渡航は難しく、首都圏から他の日本国内への移動も自粛する必要があり、完全に復旧するまでにはもうしばらく時間がかかります。企業の今年度の事業計画も先の見通しが立たず、事業予算計画もかなりいい加減なものになりそうです。経済見通しが立たない国の将来への不安は募るばかりです。

 

さて、本日は「汐留川(しおどめがわ)」について紹介したいと思います。汐留川は、汐留川二級水系の二級河川で、東京都港区から中央区を流れ東京湾に注いでいますが、もともとは江戸城の外堀とともに、溜池の水の排水路として作られたものでした。現在では、そのほとんどが埋め立てられています。

 

もともとこの辺りには、溜池の低湿地、及びその上流の清水谷(千代田区紀尾井町)、鮫川(新宿区若葉、信濃町)、大刀洗川(港区赤坂檜町公園)を水源として、愛宕山の北辺りで日比谷入江に注ぐ「桜川」と呼ばれる小さな川がありました。徳川家康が江戸に入府すると、江戸城と江戸市街の整備が進み、日比谷入江は埋め立てられます。そこに人工の水路が設けられ、溜池からの流れは外堀を東側に向けられるようになりました。溜池からの水は、虎ノ門、幸橋門を経て京橋区丸屋町(中央区銀座)と芝区双葉町(港区新橋)の間を東に流れ、江戸湾に注ぎ込んでいました。これが汐留川の大本になります。

 

その後、承応3年(1654年)に甲府藩主・徳川綱重がこの川の河口の地を拝領し、海を埋め立てて別邸が建てられます。この別邸は甲府藩の下屋敷として利用されていましたが、後に徳川将軍家の別邸「浜御殿」として使われました。これが浜離宮庭園です。この庭園が建設されると、それを取り囲むように水路が延長され、浜離宮南門橋の手前で築地川と合わせて南西に折れ浜離宮庭園の西縁の水路が汐留川と呼ばれるようになりました。

江戸湾からの潮の干満の影響が上流の溜池に及ばないように堰堤をつくり、海側の汐水を堰き止めたことから、汐留川の名が付けられましたが、明治以降、汐留川はその上流にまで拡大されます。溜池から虎ノ門、幸橋門、新橋までも汐留川と呼ばれるようになりました。しかし、その後は埋め立てが進み、現在ではもともとの汐留川であった最下流部の浜離宮庭園西縁及び南縁の約900メートルを残すのみとなっています。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年6月10日 07:50に書いたブログ記事です。

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