東藝術倶楽部瓦版 20200615:【江戸の川その81】江戸市中の側溝-もう一つの「桜川」

おはようございます。東京では経済活動も大分回復しており、正常な日常を取り戻しつつあるように思えますが、多くの大手企業では依然として在宅勤務体制がとられています。そんな中、昨日の東京都の新型コロナウイルス感染者数として47人が確認されたわけですが、東京都からは特段のコメントがみられません。一方、北京では一昨日から昨日にかけて44人の感染者が確認され、「非常時」として第二波への警戒が叫ばれています。日中の危機管理に対する考え方の違いが浮き彫りになっています。

 

さて、本日はもう一つの「桜川(さくらがわ)」について紹介したいと思います。「八丁堀川」が、明治期に「桜川」と呼ばれるようになったことは以前紹介した通りですが、ここではそれとは別に、汐留川から分流して南に流れ、古川橋に注ぐ人工の溝渠であった桜川を紹介します。

 

江戸時代以前は、今の新宿区若葉付(四ツ谷駅南側)近から赤坂御用地内の池を経て赤坂見附側へと下り、後の溜池となる低湿地を経て、虎ノ門と愛宕山の間辺りで当時の日比谷入江に注ぐ小さな川がありました。上流部を「鮫川」と呼ばれていたそうです。

江戸時代に入り、日比谷入江が埋め立てられ、外堀の整備が進められると同時に、その小川の水が人工の流路として付け替えられ、桜川として整備されたとされています。人工の流路は、溜池に平行してそのすぐ南を南東に流れ、虎ノ門の南側で南に折れて愛宕山の東側を流れ、増上寺広度院御本坊の手前で東に折れ、大横町(芝大門)で宇田川を分流します。そのすぐ先の三島町で南に折れ、そこから増上寺の東側を南流して、将監橋(しょうげんばし)のたもとで「古川」に注いでいました。途中は、いくつもの細流に分かれて、市中の側溝の役割を果てしていました。

 

その後、外堀の整備の一環として弁慶堀が開削されたことによって、鮫川や現在の千代田区紀尾井町付近を南流していた支流である清水谷からの流れは断ち切られました。このため、それ以降の桜川は溜池やそこから流れ出す汐留川の水が利用されていたものと思われます。現在、桜川とその細流は埋め立てられるか、或いは下水道に転用されています。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年6月15日 09:58に書いたブログ記事です。

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