東藝術倶楽部瓦版 20200703:【江戸の川その89】かたびらの衣纏てカッパ住む-「帷子川」

おはようございます。東京での新型コロナウイルス感染確認者が再び100人を超えました。こうなることは分かり切っていたにもかかわらず、経済を優先して密な接触を再開した意識の低さが招いた結果だともいえましょう。幸いにしてまだ重症者の数が少なく、今のところ海外で起きた医療崩壊になる様相はみせていませんが、高齢者や既往症を抱えている人に感染すれば深刻な状況に陥ることは想像に難くありません。化学製品や放射能によって著しく抵抗力が落ちている現代人にとっては致命的な事態になっている現実をもっと知るべきです。

 

さて、本日は江戸から少し離れてしまいますが、「帷子川(かたびらがわ)」について紹介したいと思います。帷子川は神奈川県横浜市を流れる二級河川で、帷子川二級水系に属し、延長は17キロメートル、流域面積は57.9平方キロメートルに達します。

 

帷子川の水源は横浜市旭区若葉台にあり、保土ヶ谷区を南東に流れ、西区のみなとみらい地区と神奈川区のポートサイド地区に跨る辺りで横浜港に注いでいます。もともとは蛇行の激しく水害の多い暴れ川でしたが、田畑の灌漑用水として利用されていました。戦後は本格的な治水事業が行われ、川の直線化や大規模な護岸工事が進められ、現在では帷子川親水緑道等の親水公園や川辺公園などが整備されています。

 

平安時代には「袖ケ浦」と呼ばれた入江が今の保土ヶ谷区東端部まで湾入しており、帷子川の河口は「帷子湊(かたびらみなと)」と呼ばれ栄えていました。江戸時代に入ると、河口の船着場を利用して薪炭などの物流拠点となりますが、宝永4年(1707年)の富士山の大噴火による降灰で川筋が埋まり、河口が下流へと移動しました。享保16年(1732年)に河川の改修工事が行われたとの記録があり、天保4年(1833年)から文久3年(1867年)にかけて岡野新田や平沼新田などの開発が行われ、河口も現在の平沼橋辺りに移ります。安政5年(1858年)の日米修好通商条約締結による横浜開港以降、近代化の波が押し寄せ、八王子からの「絹の道」の開通とともに、絹のスカーフ輸出のための染色・捺染(なっせん)工場が帷子川周辺に集まるようになりました。

 

帷子川の名称の由来には諸説あり、一説には保土ヶ谷区一帯は片方が山で、もう片方の北側の河口側がなだらかな田畑で、片側だけが平地という「片平(かたひら)」と呼ばれていた地名が川の名前として使われたと言われています。そもそも「帷子」とは、装束をつけるときに汗取りととして着たものを指し、材質は生絹(すずし)や練り絹(ねりぎぬ)、麻糸で織った布でした。それが江戸時代には、麻や苧麻(からむし)で織った布で仕立てた単衣(ひとえ)のことを帷子と呼んでいました。「かたびらの衣纏てカッパ住む」、帷子川にはカッパ伝説も残っているようです。

 

帷子川には二俣川、中堀川、新井川、くぬぎ川などの支流があり、派川として旭区白根町付近から分水して神奈川区で新田間川(あらたまがわ)に合流する「帷子川分水路」があります。新田間川や石崎川、幸川なども帷子川の派川とされています。

 

本日は画像の添付がうまくいきません。Hotmailはこうした事態が常に生じる欠陥メールですが、中国でのやり取りができる数少ないものですので、使わざるを得ない状況である旨、ご理解ください。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年7月 3日 08:10に書いたブログ記事です。

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