東藝術倶楽部瓦版 20200714:【江戸の町その02】標識のない町-「江戸市街の姿」

おはようございます。天気も社会もすっきりしない日が続いています。これが今の日本、あるいは地球の状態を表しているのかと思うとやるせない気持ちなのですが、それでも何とかしようとあがいている毎日です。こんな状態の中でも明日は新たな委託事業の入札申請、現在請負中の委託事業の月次報告締切りと作業が続き、更には午後に2カ所の往訪と来客が1件あり、わずかながらでも稼ぎつつ、中国側との交流会議や経済界の訪中代表団派遣に向けた打合せをする次第です。周りの状況は変われど、忙しさは相変わらずです。

 

さて、本日は「江戸市街の姿」についてみてみたいと思います。江戸時代、江戸の市街には基本的に道路標識や町名標示といった類のものはありませんでした。また、武家も町屋も今のように表札などは付けていません。ですから、人の家や場所を訪ねる場合には切絵図と呼ばれる地図に頼るか、或いは近所の人に聞いて回るしかありませんでした。

 

基本的に江戸の町は、大名や旗本・御家人が住む武家地と町人居住地の町屋とでは一目で分かるようになっていました。武家地では塀や垣根がそれぞれの屋敷を囲み緑が多く、町屋は建物がひしめき合った形になっています。武家屋敷は江戸城を取り囲む形で内堀内や山手の高台に配置され、町屋は内堀の外側の低地帯、いわゆる下町に置かれていました。

町屋は道路に面して長方形に隙間なく建物が並んでおり、木戸によって仕切られた内側に多数の長屋が密集していました。その木戸には木戸番が居て、明け六ツ時(午前6時頃)には木戸を開け、夜の四ツ時(午後10時頃)には木戸が閉められていたことは、以前紹介した通りです。夜の江戸市街は、武家地は辻番が、町方では木戸番や自身番がそれぞれ見回りを行うだけで、灯火もほとんどみられず、静まり返っていました。

 

このように建物がひしめき合っているわけですから、一旦火事になると大変です。町ごと焼けてしまう大惨事になってしまう場合が多かったことは、本瓦版の火事シリーズでも紹介した通りです。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年7月14日 10:54に書いたブログ記事です。

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