東藝術倶楽部瓦版 20200827:【江戸の町その12】徳川将軍家からも重んじられた-「浅草寺」(中)

おはようございます。朝から所用続きで瓦版の更新ができず恐縮です。海外への渡航がストップしており、中国に行くにも行けずの状態が続いています。現地職員からの情報やネット、文献等による情報分析では、やはり限界はあるものの、できる範囲で毎日調査研究を悶々と続けている状態です。中国へはもう7カ月以上も行っていない異常事態の中で、どう正しい情報をより正確な形で世の中に伝えるか、葛藤の日々が続いています。

 

さて、本日は前回に続いて江戸時代以降の浅草寺について紹介したいと思います。

 

天正18年(1590年)に江戸に入府した徳川家康は、伝統ある浅草寺を祈願所と定めて寺領500石を与えます。徳川幕府の手によって江戸の町づくりが行われ、人口が過密になっていくことで、江戸では火事が絶えなくなったことは以前にも紹介した通りですが、こうした頻発する大火災によって浅草寺の伽藍もたびたび焼失しました。寛永8年(1631年)、寛永19年(1642年)と相次いで焼失したことから、慶安元年(1648年)に五重塔を、そして翌慶安2年(1649年)に本堂を再建するために、3代将軍・家光は支援を行いました。このように、浅草寺は徳川将軍家からも重んじられ、観音霊場として多くの参詣者が集まってきました。

貞享2年(1685年)、浅草寺の表参道に現在の仲見世の前身となる商店街が設けられます。これは、近隣の住民が浅草寺境内の清掃を役務として課す見返りとして店の開業を許したものでした。江戸時代中期には、境内の西側の奥に通称「奥山」と呼ばれる場所で大道芸が行われるようになります。更に天保13年(1842年)から翌年にかけて、江戸三座(中村座、森田座、市村座)と呼ばれた芝居小屋が浅草聖天町(あさくさしょうでんちょう)〔猿若町〕に移転してきます。こうしたことで、浅草は庶民の娯楽の町として大きく賑わっていきました。

 

明治6年(1873年)に浅草寺の境内が公園地に指定され「浅草公園」となり、明治18年(1885年)には表参道両側の商店街が近代的なレンガ造りの建物に建て替えられます。明治23年(1890年)には商業施設と展望台を兼ねた「凌雲閣」(浅草十二階)が建てられています。大正12年(1923年)の関東大震災では、境内は一部建物が延焼するだけで済んだものの、昭和20年(1945年)の東京大空襲では本堂や五重塔などが焼失してしまいました。

 

戦後直後に浅草が一時衰退する時期もありましたが、今では下町を代表する東京の観光スポットして多くの内外からの観光客で賑わっています。

 

まだまだ浅草寺の紹介は続きます。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年8月27日 08:11に書いたブログ記事です。

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