東藝術倶楽部瓦版 20200907:【江戸の町その16】成田不動尊の出開帳から始まった「深川不動尊」

おはようございます。おはようございます。台風9号に続き、台風10号が九州地方全域と中国地方の一部を暴風域に巻き込みながら北上を続けています。今のところ河川の氾濫に関する情報は出ていませんが、今後の被害状況はもうしばらくしてみないと何とも言えません。過去の教訓をもとに各地で避難が早めに行われていたこともあり、従来よりは人的被害が少ないのではないかと思います。過去から何を学ぶのか、とても大事なことです。

 

さて、本日は深川界隈のもう一つの名所「深川不動尊(ふかがわふどうそん)」について紹介しようと思います。深川不動尊は「深川不動堂(ふかがわふどうどう)」とも呼ばれ、これらはいずれも通称で、正式名称は「成田山東京別院深川不動堂(なりたさんとうきょうべついんふかがわふどうどう)」です。名称からも分かるように、千葉県成田市にある大本山「成田山新勝寺(なりたさんしんしょうじ)」の東京別院として建てられたものです。

 

ですから、深川不動尊の山号は成田山、宗派は真言宗智山派、本尊は不動明王と、いずれも成田山新勝寺と同じです。新勝寺の本尊である不動明王の霊像は、嵯峨天皇の勅願により弘法大師(空海)が一刀三礼(一彫りごとに三度礼拝する)敬刻開眼したものとされ、その分身が深川不動尊の本尊となっています。

 

深川不動尊は先に紹介した富岡八幡宮と同じ江東区富岡にあります。成田山新勝寺の創建は天慶3年(940年)と平安時代に遡りますが、庶民信仰の対象として高い人気を得るようになったのは江戸時代中期以降です。江戸時代の初めに、歌舞伎役者の市川團十郎がしたご利益を得たことをきっかけに「成田不動尊利生記」などの芝居を行ったことから、江戸っ子の間で新勝寺の不動尊を拝観したいとの機運が高まります。これを受けて、元禄16年(1703年)に第1回の成田不動の「出開帳(でかいちょう)〔秘仏特別公開〕)」が富岡八幡宮の別当・永代寺で開かれました。これが深川不動尊の始まりとされています。

その後、江戸における成田不動の出開帳は安政3年(1856年)までに12回行われましたが、そのうち1回を除きこの深川永代寺が会場となりました。明治維新後、永代寺は神仏分離令によって廃寺となり、境内は深川公園となります。しかし不動尊信仰は止むことなく、明治11年(1878年)に、現在の場所に成田不動の分霊を祭り、深川不動尊として存続することになりました。明治14年(1881年)に建てられた本堂は関東大震災や東京大空襲で二度に渡り焼失しましたが、本尊は幸いにも焼失を免れています。

 

ちなみに、成田不動の江戸での出開帳が行われるようになったきっかけとして、一説に5代将軍・綱吉の生母・桂昌院が成田不動尊を篤く信仰しており、護国寺の高僧・隆光を動かして出開帳を実現させたとも言われています。実際に元禄16年の最初の出開帳には桂昌院も参拝しています。

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このページは、システム管理者が2020年9月 7日 09:36に書いたブログ記事です。

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