東藝術倶楽部瓦版 20200928:【江戸の町その22】生あるものすべてのものへの仏の慈悲を説くもの-「回向院」

おはようございます。最近、芸能人の訃報が続いています。自ら命を絶つ人も少なくないようで、今回亡くなられた竹内結子さんも自殺とみられています。私としては、NHK大河ドラマの「真田丸」で淀殿を演じていた印象が強く残っています。真相はよく分かりませんが、華やかに見える芸能界は、衆目を集めるだけにそのストレスは尋常ではなく、そこに家庭問題など私的な事情が加わると、相当気をしっかりと持たないと心が折れてしまうのかもしれません。世に名前が出るということは、それだけの重圧がのしかかることも覚悟すべきなのでしょうか。

 

さて、本日は「回向院(えこういん)」について紹介しましょう。回向院は東京都墨田区両国にある寺院です。宗派は浄土宗に属し、山号は諸宗山(しょしゅうざん)、正式名称は「諸宗山無縁寺回向院(しょしゅうざんむえんじえこういん)」です。一時期、「国豊山(こくぶざん)無縁寺回向院」とも称されたこともあります。

 

過去、現在の荒川区南千住に別院があり、そこと区別するためでしょうか、「本所回向院」とも呼ばれていました。本尊は言わずもがな、浄土宗ですから阿弥陀如来となります。ちなみに、南千住の別院であった回向院は、現在は独立して「豊国山(ほうこくさん)回向院」、或いは「小塚原(こづかはら、こずかっぱら)回向院」と呼ばれています。

 

回向院が開かれたのは明暦3年(1657年)です。この年、江戸では「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があったことは、これまで何回も紹介してきたところです。江戸市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の人が亡くなりました。亡くなった人の多くは身元が分からず、身寄りのない人だったと言われています。

 

時の将軍徳川家綱は、こうした無縁の人々の亡骸を手厚く葬るために、隅田川東岸の本所牛島新田に50間四方の土地を与えて「万人塚」を設け、増上寺第23代遵誉上人(じゅんよじょうにん)を導師として亡くなった人々の冥福を祈る大法要が執り行われました。この時に念仏を行じるお堂が建てられますが、これが回向院の始まりとされています。

この起こりが、これまで回向院で今でも守られている「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるものすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」という理念とのことです。安政2年(1855年)の安政の大地震をはじめ、水死者、焼死者、刑死者などの無縁仏のほか、軍用犬・軍馬慰霊碑、猫塚、犬猫供養塔、小鳥供養塔など様々な慰霊碑や供養塔、ペットの墓などがあります。著名人としては山東京伝、竹本義太夫、鳥居清長、鼠小僧次郎吉などの墓もあります。

 

このような理念に基づき、阿弥陀如来を本尊とする一方で、境内堂宇には観世音菩薩や弁財天などが安置され、江戸庶民にとっては様々な巡拝の札所ともなっていました。今でも江戸三十三箇所観音参りの第4番札所となっており、ここの馬頭観音は家綱の愛馬を供養したことに由来しているとか。また、寛政8年(1793年)、老中・松平定信の命によって立てられた「水子塚」は水子供養の発祥とされており、毎年2月の第一土曜日に水子総供養、その他隔月ごとに水子供養が行われています。

 

回向院は、境内で勧進相撲が行われていたことでも知られています。明和5年(1768年)に勧進相撲が行われて以来、明治末期まで続きました。これを「回向院相撲」と呼ぶこともあります。このことが起源となり、明治42年(1909年)に旧両国国技館が建てられることになります。昭和11年(1936年)には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立しています。

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このページは、システム管理者が2020年9月28日 09:22に書いたブログ記事です。

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