東藝術倶楽部瓦版 20201001:【江戸の町その23】利根川河口の亀島-「亀戸」

おはようございます。今日から10月、旧暦10月の和風月名では神無月です。日本中の八百万の神々が年に一度、出雲国の出雲大社に集まり神々が不在になるということから名付けられたと言われています。このため、出雲国(島根県)では神在月というのだそうです。それはさておき、今年も残すところあと3カ月です。1026日には中国共産党五中全会、11月3日には米国大統領選があり、世界情勢をみる上では気の抜けない日が続きます。世界中でコロナ禍が収まらぬ中、庶民の暮らしはどうなっていくのでしょうか?

 

さて、本日は「亀戸(かめいど)」について紹介したいと思います。亀戸は東京都江東区にある地名で、江東区の北部に位置しています。現在では墨田区にある錦糸町と併せて「錦糸町・亀戸副都心」の指定を東京都から受けています。ここもまた、本所地域に属しています。

 

江戸時代以前、利根川が今の東京湾に流れ込んでいたことは、既にこの瓦版でも重ねて紹介してきたところですが、この古代の利根川の東京湾河口に土砂が堆積して島が作られていました。当時の利根川河口付近の分流であった中川(旧中川)と隅田川(横十間川)が接近した東西両河口の間にあたる場所で、現在の北十間川が陸地側と島を隔てていました。その流れの南岸の堆積物が島となっていました。この島が亀の形をしていたことから、この辺りは「亀島(かめじま)」、「亀ケ島(かめがしま)」、「亀津島(かめづしま)」などと呼ばれていたそうです。

 

後にこの亀島の周辺に土砂が堆積して周りの島々と合わさって陸続きになり、亀島は「亀村(かめむら)」と呼ばれるようになります。これに加えて、江戸時代に亀村にあった「臥龍梅庭(がりゅうばいてい)」の井戸「亀ケ井(かめがい)」と混同され、「亀井戸(かめいど)」と呼ばれるようになり、更に「井」が取れて亀戸になったとのことです。また、亀津島の「津」が「と」に変化したという説もあります。

寛文4年(1664年)、亀戸村のうち亀戸天神及び天神橋周辺、北十間川南岸、十間川東岸の百姓商売屋が引き立てられ、元禄10年(1697年)には一帯が町地となり、亀戸町、亀戸境町、亀戸清水町の三町が成立します。この三町は正徳3年(1713年)に本所の町地が町奉行の所管として移管された際に、町奉行と代官の双方の支配地となりました。その後、明治5年(1872年)に亀戸町以外は亀戸村に再び合併します。

 

現在の亀戸が成立するのは、明治21年(1988年)に行われた「明治の大合併」以降のことで、明治22年(1989年)の市制町村制が施行されてからです。この時以降、従来の亀戸村や新設の各村は東京市深川区、本所区へと編入されていきます。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://azuma-geijutsu.com/mt/mt-tb.cgi/425

コメントする

2021年1月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

このブログ記事について

このページは、システム管理者が2020年10月 1日 09:48に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20200928:【江戸の町その22】生あるものすべてのものへの仏の慈悲を説くもの-「回向院」」です。

次のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20201005:【江戸の町その24】ゴッホも描いた「亀戸梅屋敷」」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ