東藝術倶楽部瓦版 20201005:【江戸の町その24】ゴッホも描いた「亀戸梅屋敷」

おはようございます。先週末もいろいろとありました。国際的にはトランプ米大統領がコロナに感染、入院する騒ぎがあったかと思うと、国内的には日本学術会議が候補に挙げたメンバーを政府が拒否するという騒動がありました。政府の意向に沿わない学者・研究者は国からも認められないという官邸の意思表示であり、ますます御用学者が跋扈するいびつな社会が広がる危険性が強くなります。行政も官邸主導で人事が決められることから、忖度ばかりに気を使う官僚がはびこり、まともな外交政策ができなくなります。日本は国際社会から取り残される方向に進みつつあります。

 

さて、本日は「亀戸梅屋敷(かめいどうめやしき)」について紹介しようと思います。我が東藝術倶楽部の第1回大江戸勉強会はこの亀戸梅屋敷を始めとして、先に紹介した回向院、そしてこの後に紹介していく亀戸天神などを巡り歩いたことを記憶している会員も少なくないかと思います。

 

江戸時代の初め、亀戸の辺りは民家もない田畑が広がる地域でした。明暦の大火後の寛文元年(1661年)に亀戸天神が創建されると、この地域も次第に都市化が進んできます。本所の居を構えていた呉服商の伊勢屋彦右衛門の別荘「清香庵」がこの亀戸にあり、その庭にたくさんの見事な梅の木が生えていました。この清香庵こそが亀戸梅屋敷と言われるようになる所以です。立春の頃になると、江戸中から多くの人々が北十間川や竪川を船に乗ってやってくるなど賑わいをみせていたようです。

 

庭園の中に、長さ数十丈(約150メートル)にわたり枝が地中に入ったり出たりする一本の梅がありました。この梅を見た徳川光圀は、「まるで龍が伏しているようだ」と言って、その梅の木に「臥龍梅(がりゅうばい)」と名付けたと言われています。また、享保9年(1724年)に八代将軍・徳川吉宗が隅田川辺の鷹狩りで立ち寄った際にこの臥龍梅を見て、一旦土に入った枝が再び地上に這い出る様を生命の循環になぞらえて「世継ぎの梅」と命名して称賛したとも伝えられています。

 

ご存知の通り、亀戸梅屋敷や臥龍梅は浮世絵の題材として多く作品が作られています。特に歌川広重が安政3年(1857年)に描いた「名所江戸百景」の「亀戸梅屋敷」は有名です。ビンセント・ファン・ゴッホが描いた「ジャポニズム:梅の花」は、世界中から称賛されるほどの傑作作品となっています。

臥龍梅については、最初のものは寛政4年(1792年)頃に枯死したとされ、その後に枝から次々と根を出し、二代、三代と続いていったようです。現在、この梅屋敷は残っておらず、明治43年(1910年)に水害で完全に枯死したために梅屋敷は閉園となりました。昭和33年(1958年)に建てられた石標と一本の梅の木が当時を偲んでいるばかりです。

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このページは、システム管理者が2020年10月 5日 08:35に書いたブログ記事です。

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