東藝術倶楽部瓦版 20201030:【江戸の町その32】梅は百花に魁けて咲く-「向島百花園」

おはようございます。明日で10月も終わり、今年も残すところあと2カ月となりました。中国では1026日から29日まで、中国共産党第19期中央委員会第5回全体会議(五中全会)が開催され、来年から始まる第14次五カ年計画と2035年までの長期計画が話し合われ、方向性が話し合われました。新聞報道でも話題になったように、米中対立やコロナ禍でのサプライチェーンの分断懸念を教訓に、内需主導を軸に海外循環と国内循環をうまく連結し、海外からの圧力にも耐え得る経済システム「双循環」を構築しようとする方針が打ち出されています。こうした抽象的な方針を如何に具体化していくかが、今後の経済運営の課題となります。日本にはこうした全体ビジョンがなく、暗中模索の中で将来的な不安だけが残る状態となっています。

 

さて、本日は「向島百花園(むこうじまひゃっかえん)」について紹介したいと思います。向島百花園は、東京都墨田区東向島にある都立公園で、四季折々の草花を楽しむことができます。中でも早春の梅と秋の萩のトンネルは有名で人気を博しています。

 

もともとは、仙台出身の骨董商・佐原鞠塢(さはらきくう)〔通称:北野屋平兵衛〕が文化元年(1804年)に開園した民間の庭園で、旗本の多賀氏の屋敷の土地を買い取って造園したものです。開園当初は360本もの梅野木を植えたことから、亀戸の梅屋敷に倣って「新梅屋敷」、あるいは「花屋敷」などとも呼ばれました。

 

その後、文化6年(1809年)には「百花園(ひゃっかえん)」と呼ばれるようになります。ミヤギノハギ、筑波のススキなど、中国の『詩経』や日本の『万葉集』等の古典に詠まれている植物を集め、四季折々の花が楽しめるようにしました。江戸時代には多くの文人墨客が頻繁に訪れ、向島百花園はサロンとして利用されていました。「梅は百花に魁けて咲く」と言ったことが百花園の命名になったとされる絵師の酒井抱一(さかいほういつ)、門の額を書いた狂歌師の太田南畝らがいました。また、百花園の命名に関しては、一説には「四季百花の乱れ咲く園」という意味で付けられたとも言われています。

 

やがて向島百花園は庶民にも親しまれるようになり、茶店では百花園でとれた梅干しが茶うけに出されていたそうです。こうした庶民的なところが、小石川後楽園や六義園などの大名庭園とは異なる趣を有していたのでしょう。

民営の庭園として親しまれてきた向島百花園でしたが、明治以降の近代化の波には勝てず、度重なる洪水などの被害もあって、明治末期ころには荒廃してしまいます。しかし、これが東京都に譲渡され、昭和14年(1939年)には公営の公園として再出発しました。昭和20年(1945年)の東京大空襲による全焼を受けるも、昭和24年(1949年)に百花園として復興することなり、現在に至っています。昭和53年(1978年)には文化財保護法に基づいて国の史跡及び名勝に指定され、保護措置がとられるようになっています。

 

谷中と並んで向島の隅田川七福神は有名で、江戸時代から年初めには七福神巡りが慣例の行事になっています。向島百花園には隅田川七福神のうち、福禄寿が祀られています。

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このページは、システム管理者が2020年10月30日 10:44に書いたブログ記事です。

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