2018年7月アーカイブ

 

おはようございます。本日は午後から公益財団法人国際民商事法センターと中国の国家発展改革委員会の主催で「日中民商事法セミナー」が開催されます。中国からは同委員会の林念修副主任(副大臣)が出席、日本側のトップは住友商事の社長・会長を務めた宮原賢次同センター会長です。今回中国政府高官や専門家が集まる中、ハイテクセッションでモデレーターを務めることになり、昨日からその準備に勤しんでいます。

 

https://jcpage.jp/jcevent/op/181/0

 

さて、本日は「使番(つかいばん)」について紹介したいと思います。使番は、古くは「使役(つかいやく)」とも呼ばれ、元々は戦国時代に戦場で伝令や監察、敵軍への使者などを務めた役職で、武功第一の者の役柄でもありました。織田・豊臣時代の職名にもみられ、これが江戸幕府や諸藩へと引き継がれたものです。

 

江戸幕府においては若年寄の支配に属し、役高は1,000石、役料は500石で布衣、番方(武官)としての役柄です。元和3年(1617年)に定役となり、その時の定員は28名乃至は25名ともいわれ、その後増加して文化年間(1804年~1818年)に50名前後、幕末には更に増えて最大で112名に達しました。慶応2年(1866年)、定員は半分の56名に削減されました。

 

寛永14年(1637年)~寛永15年(1638年)の島原の乱以降、江戸時代には大規模な戦乱が発生せず、使番の役柄も次第に変わっていきます。目付とともに遠国奉行や代官等の遠方で職務にあたる幕府官吏に対する監査業務を担当することになり、将軍の代替わりの際に諸国へ巡回して大名の治績動静を巡視する「諸国巡見使(しょこくじゅんけんし)」や幼少の大大名の下でその後見監督にあたる「国目付(くにめつけ)」、大名の改易や転封の際の城受け渡しの監督、二条城・大坂城・駿府城・甲府城等の幕府役人の監督など幕府の「上使」を務めたほか、江戸市中で火災が発生した際に火勢の報告や大名火消・定火消の監督なども行いました。

 

尚、これとは別に大奥には御台所(みだいどころ)や大奥の上臈(じょうろう)〔高級女官〕と御広敷(おひろしき)役人の連絡にあたる「御使番(おつかいばん)」が設置されていました。これは大奥女中のうち御目見え以下の者の役職でした。

 

高見澤

 

おはようございます。昨週末の台風はこれまでにない異例のコースをたどって、三重県に上陸、その後西進して今は九州付近を南寄りに進んでいるようです。被害の全貌もまだ分かっていないばかりか、九州の西海上で停滞する可能性もあり、長時間暴風雨に曝され被害が更に拡大する危険性があります。異例ずくめの今年の天候、これから先も予断が許されません。

 

さて、本日は「先手組(さきてぐみ)」について紹介したいと思います。先手組は江戸幕府の軍制の一つで、職制上は若年寄支配、治安維持の役割を担っていました。

 

「先手(さきて)」とは先陣、先鋒といった意味であり、戦時には徳川家の先鋒足軽隊を務め、徳川家創成期には弓足軽・鉄砲足軽を編制して合戦に参加していました。江戸時代に入り合戦がなくなくと、先手組は江戸城の各門(蓮池、平川、下梅林、紅葉山下、坂下)の警備、将軍外出時(寛永寺、増上寺参詣)の警護、江戸城下の治安維持などが主な職務となります。また、諸大名の依頼を受けて願達を取り次ぐ場合もあったようです。

 

江戸城下の治安維持については、組のうちの1組が「火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)」として、江戸市中の防火と警察の役を果たし、その長官は先手頭1名が「加役」として兼務していました。同じように江戸城下の治安維持にあたっていたのが町奉行ですが、町奉行は役方(文官)であり、先手組は番方(武官)であることから、組与力や組同心の取り締まりは町奉行所の与力、同心に比べ極めて荒っぽかったようです。

 

この先手組は持組と同様に弓組と鉄砲組から編制されており、戦場においては名前通り先陣を務めるのが常でした。この起源は戦国大名まで遡ることができ、定員は時代によって異なりますが、記録によれば、寛永9年(1632年)に弓組10組、筒(鉄砲)組15組が置かれ、その後弓組9組、筒組20組となり、これとは別に西の丸にも弓組2組、筒組4組が置かれていたようです。

 

1組の構成は、「先手頭(さきてがしら)」1騎、与力が5~10騎、同心が3050名からなっていました。先手頭は「先手弓頭(御先弓頭、総御弓頭)」と「先手鉄砲頭(御先筒頭、総御鉄砲頭)」とを併称した職名で、若年寄支配、役高1,500石、布衣でした。先手頭は各大名家の「御頼みの旗本衆」とされ、幕府との事前打合せや報告同行等を務めるため、由緒ある旧家の者が任命されていました。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日、オウム事件の死刑囚6名の刑が執行されました。先日の7名と合わせ、計13名全員の死刑執行が完了したことになります。死刑囚のほとんどは贖罪の思いを抱え、刑の執行の日を迎えたことと思います。洗脳されていたとはいえ、行動する前に少し踏み止まって考えればこんなことにはならなかったのでしょうが、これもまた人の意思の弱さにつけ込む悪しき想念の仕業なのかもしれません。常に自分というものを強く意識していることが大切です。

 

さて、本日は「持組(もちぐみ)」について紹介したいと思います。持組とは、将軍の弓や鉄砲を持つ部隊という意味から、将軍直衛の弓隊・鉄砲隊のことを指します。持組には鉄砲隊である「持筒組(もちづつぐみ)」と弓隊の「持弓組(もちゆみぐみ)」がありました。

 

持組は元和9年(1623年)に斎藤與三右衛門三存ほか3名が持組頭に任じられたのがその始まりとされていますが、持筒組が慶長12年(1607年)、持弓組が元和元年(1615年)にそれぞれ設置されたとの説もあります。いずれにせよ、設置当初は持筒組が3組、持弓組が1組でしたが、寛永元年(1624年)に持弓組2組、寛永9年(1632年)に持筒組1組がそれぞれ追加され、持筒組4組、持弓組3組がそれ以降定着しました。

 

持筒組、持弓組の各組は持之頭(御持筒頭、御持弓頭)の下、与力10騎、同心50名で構成されていました。同心は正徳期(1711年~1716年)に55名に増員されたとも言われています。

 

持組の平時の任務は江戸城本丸中之門、西の丸中仕切門、二の丸銅門等の警備です。慶安3年(1650年)に持筒組及び持弓組のうち各1組は西の丸付となったようです。本丸中之門には鉄砲25丁、弓25張が備えられていました。戦時には将軍護衛の役を担っていました。

 

持筒組の長である「御持筒頭(おもちづつがしら)」は若年寄支配、役高は1,500石、布衣でした。一方の持弓組の長である「御持弓頭(おもちゆみがしら)」も同様に若年寄支配、役高は1,500石、布衣でした。

 

文久2年(1862年)に持弓組、慶応2年(1866年)に持筒組がそれぞれ廃止されています。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日は帝京大学で学生80名を相手に、日中平和友好条約40周年記念の公開ゼミナールで日中ビジネスについて話をしました。中国からの留学生が大半を占め、彼らの勉強意欲は日本の学生の比ではないことが改めて認識されました。世界に影響力を強める中国を支えているのは、こうした若者の旺盛な知識欲と向上心です。

 

さて、本日は「鉄砲百人組(てっぽうひゃくにんぐみ)」について紹介したいと思います。鉄砲百人組は徳川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配に)にありました。4名の組頭の下に鉄砲与力20騎(または25騎)と同心100名が配置されていたことから、百人組と称されていました。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされていました。

 

4組とは、組頭が旗本譜代席の「根来組(ねごろぐみ)」と「甲賀組」、組頭が抱席の「二十五騎組(大久保組)」と「伊賀組(青山組)」を指します。ちなみに二十五騎組のみが鉄砲与力25騎で、残りの組は20騎ということです。通常、先手組のように鉄砲隊は一隊につき20名~50名が配備されていたことから、この鉄砲百人組は特別な存在として位置付けられていたようです。通常の鉄砲組とは異なり、高い火力を有する独立部隊として編制されていました。

天正13年(1585年)、徳川家康に仕えていた成瀬正成の下に根来衆50名が配されたのが後の百人組の原形とされています。根来衆は後に同心100名の根来組となるわけですが、家康の関東入府〔天正18年(1590年)〕後、内藤新宿に配備され、四谷の正成の指揮下で甲州路の防衛に当りました。

 

根来組の次に古いとされるのが甲賀組です。関ヶ原の戦いで活躍した活躍した山岡景友が伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟から与力10騎と同心100名を配下としたことが、甲賀組の始まりとされています。江戸幕府成立後は、千駄ヶ谷に組屋敷、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当しました。

 

伊賀組の編成は慶長6年(1601年)とされています。本能寺の変の際に、家康の伊賀越えの際の道中を警護した伊賀忍者の子孫から構成されましたが、伊賀同心が組頭の服部正成(二代服部半蔵、父の初代半蔵の保長は忍者)の組下に置かれたのは家康の関東入府時だったようです。

 

二十五騎組については史料が乏しく由来は諸説あるようですが、慶長7年(1602年)に内藤清成が与力25騎と同心100名を預けられ、組屋敷を内藤新宿及び大久保に設けたことを始まりとする説が有力です。このため、二十五騎組は別名「大久保組」とも呼ばれています。

 

鉄砲百人組の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警護を行いました。平時の勤務は月に4回程度(一昼夜勤務)と激務には程遠い勤務体制で、扶持が少ないことから普段は傘張りや提灯作り、つつじ栽培などのアルバイトをすることが多かったようです。

 

現在、東京都新宿区に「百人町」という町名があります。皆中(かいちゅう)稲荷神社の例大祭が隔年で行われ、江戸幕府鉄砲百人組が神社に奉納したとされる出陣式を再現したものだそうです。この百人町に住んでいたのは二十五騎組でした。皆中神社の「皆中」は「みなあたる」の意味があるそうです。

 

高見澤

 

おはようございます。酷暑というにふさわしい日が続きます。先週出張していた北京の天候も例年にない暑さで、しかも激しい雷雨によって飛行機の遅延も日常茶飯事。ここ数年は内陸部としては珍しい蒸し暑さが続いています。明日は帝京大学での公開ゼミナールで講義の後、白鴎大学の青崎教授とのコラボレーションで日中平和友好条約締結40周年・中国改革開放40周年に関するパネルディスカッションを行います。ということで、瓦版も休刊になります。ご了承ください。

 

さて、本日は「御用絵師(ごようえし)」について紹介していきたいと思います。御用絵師とは、江戸幕府に仕える「お抱え絵師」のことで、当然幕府以外にも諸藩に仕えた絵師もしました。御用絵師には、「奥絵師(おくえし)」と「表絵師(おもてえし)」の2つの職位があり、奥絵師は表絵師よりも格式が高いものでした。

 

室町時代、足利将軍家や織田信長などが抱えていた絵師もあり、それらが御用絵師の先駆的存在であったようですが、御用絵師が制度的に整えられたのは江戸時代になってからのことです。信長に仕えた狩野永徳の孫・狩野探幽(かのうたんゆう)が慶長17年(1612年)に徳川家康に御目見えし、屋敷と扶持、知行地を与えられ、元和3年(1617年)に幕府の絵師を務めたのが始まりとされています。一般に、御用絵師の場合、宮廷、寺社、将軍家、大名、武家等の依頼主から作品の依頼があって、描いた作品や行った仕事に対して報酬が支払われましたが、江戸幕府の場合は所領や扶持が与えられ、毎月決まった日に出仕するなど、特別な待遇が与えられていました。

狩野探幽

 

元和7年(1621年)、探幽は京都から江戸に本拠内を移し、江戸城鍛治屋橋門外に屋敷を構えます。その後、探幽の一族は「中橋」、「鍛治屋橋」、「木挽町」、「浜町」4家に分立、奥絵師に任じられ、「狩野四家」と呼ばれるようになります。また、大和絵の土佐派から分立した住吉派、そしてその門人の板谷家も奥絵師に任じられました。

 

奥絵師は若年寄支配、御目見え以上の旗本と同格の待遇を受け、知行は200石、帯刀と世襲も許されていました。板谷家以外の奥絵師は、御医師並や同朋頭格・同朋格などの職格が与えられ、正式な儀式で直接将軍に拝謁することができたようです。奥絵師は、江戸城本丸大奥の御絵部屋に月に6回(一説に12回)出仕し、殿舎の装飾画など幕府の御用に従って絵画を描いていました。

 

これに対して表絵師は、御目見え以下の御家人待遇で20人扶持、出仕の義務はありません。奥絵師・狩野四家の分家や門人が一家を構えて独立し、奥絵師を補佐していました。表絵師は帯刀は許されず、一代限りを建前としていました。

 

表絵師には次の15家があります。

駿河台狩野、山下狩野、深川水場狩野、稲荷橋狩野、御徒士町(おかちまち)狩野、本所緑町狩野、麻布一本松狩野、神田松永町狩野、芝愛宕下狩野、根岸御行之松狩野、築地小田原町狩野、金杉片野町狩野、猿屋町代地狩野、猿屋町代地分家狩野、勝田狩野。

 

高見澤
 

おはようございます。一昨日、北京出張から戻ってきました。出張期間中は会議の連続で、会議が終わってからは中国側から示された課題・提案に対する打合せ、会議報告の作成など、睡眠時間を削っての作業の連続で、昨日の日曜日は身体も頭も疲労困憊でほとんど動かない状態でした。そして今日からまた1週間が始まります。

 

さて、本日は江戸幕府の役職とする意見もある一方で、直参家臣団の一組織としての認識が強い「小普請支配(こぶしんしはい)」、「小普請組(こぶしんぐみ)」について紹介していきたいと思います。この2つの組織を合わせて「小普請(こぶしん)」と言いますが、以前瓦版で紹介した下三奉行の小普請奉行とは別のものです。小普請奉行は江戸幕府のれっきとした役職で、江戸城内外や幕府直営の建物・寺社の営繕を担当、下に小普請方などの行政組織がありました。

 

それに対して小普請は行政組織というよりは、ボランティアに近い意味合いがあり、今でいうとNPO(非営利団体)に近いのかもしれません。3,000石以下の旗本と御家人の無役の者から編制され、旗本を小普請支配、御家人を小普請組としていました。普請というのは造営修築工事のことを指し、小規模な普請があった際に、無役無勤の者が家人や召使を人足として供したのが小普請の始まりとされています。3,000石以上の上級旗本無役者や布衣以上の退職者を「寄合」としていたことは、すでに説明済みですが、その寄合や高家と同じようにこの小普請も家格という側面もあるのかもしれません。

 

延宝3年(1675年)、それまで実際に人夫を出していたのを1,000石につき金10両の金納に改めるよう計画がなされます。そして元禄3年(1690年)に、知行高20俵以下は無役(免除)、2050俵は金2分、50100俵は金1両と金納とすることに変更しました。この金納のことを「小普請金(こぶしんきん)」と言います。

 

小普請は、当初は留守居支配に属していましたが、享保4年(1719年)から老中支配となり、時代によって異なりますが6~12組に分けて統率され、延享3年(1746年)、各組に支配頭1名、組頭を2名(後1名)を置くこととされ、このほかに世話役、世話取扱、小普請金上納役、小普請医師などが配下にいました。

 

幕末になるに従い小普請は徐々に縮小、文久3年(1863年)には5組になり、慶応3年(1866年)に小普請は廃止されます。

 

高見澤

 

おはようございます。この三連休、皆さんはどのようにお過ごしでしたか?友人や同僚などの情報を聞くと、イベントや旅行を楽しむ人も少なくありませんでした。私はといえば、相も変わらず仕事一辺倒で、土曜日と月曜日は終日出勤、日曜日は少し休んだだけで家で資料と格闘していました。そして明日から北京出張です。帰国は土曜日ですので、今週の瓦版は本日の1本のみとなります。

 

さて、本日は「大坂定番(おおさかじょうばん)」、「大坂加番(おおさかかばん)」について紹介したいと思います。本来であれば、大坂城代と一緒に紹介すればよかったのですが、失念していましたので、ここで改めて紹介致します。

 

大坂夏の陣の後、しばらく経った元和5年(1619年)に大坂城代が設置されたのはすでにお話しした通りです。その大坂城代の補佐役として設置されたのが大坂定番です。大坂城代の補佐役とはいえ、老中支配に属し、役料は3,000俵、1~2万石の譜代大名2名がその任にあたり、大坂城内の維持管理を行っていました。

 

大坂定番は大坂城在勤の番方で、主な任務は大坂城の京橋口内外と北の外曲輪筋鉄門の警備、同玉造口内外と東仕切の警備で、定番2名がそれぞれの虎口を担当していました。配下にはそれぞれ与力30騎、同心100人がいて、大坂鉄砲奉行や弓奉行など諸奉行の監督も行っていました。任期の定めは特にありませんでした。

 

大坂定番が創設されたのは、元和7年(1621年)に大番頭であった高木正次(大坂定番と同時に河内丹南藩主に移封)と越後三条藩主の稲垣重綱を定番に任じたのが最初とされていますが、一説にはそれが元和9年(1623年)だっとも言われています。その後一時空白の期間がありましたが復活し、幕末まで続きました。大坂定番が廃止されるまで、京橋口定番は29名、玉造口定番は28名が就任しています。

 

次に大坂加番です。「加番」とは、大番に加勢することから加番と呼ばれ、正式な役職ではないとされていますが、こちらも大坂定番と同じように老中支配で、小大名が任じられていました。大坂加番が設置されたのは宝永6年(1709年)で、定員は4名、大番と同じく任期は1年の交代制でした。

 

大坂城本丸・二の丸等の中心部を警備していたのは主に東大番・西大番の大番2組でしたが、それに加勢する形で山里加番(役高2万7,000石)、中小屋加番(役高1万8,000石)、青屋口加番(役高1万石)、雁木坂加番(役高1万石)の4加番が置かれていました。

 

高見澤
 

おはようございます。今朝も朝から暑いです。昨晩の帰宅は11時、帰宅後何もせずに1115分に寝て今朝起床したのが4時15分。ここ何か月間は毎日がこのようなサイクルで職場に通っています。週末に多少睡眠時間が増えますが、ほぼパソコンや資料とにらめっこの状態です。こんな生活がいつまで続くのでしょうか?

 

さて、本日は「御三卿家老」について紹介したいと思います。御三卿については、すでに紹介済みですが、少しおさらいをしておくと、8代将軍・吉宗の息子・孫によって立てられた大名家で、田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家を指しています。将軍家と御三家との血縁関係が疎遠になったこともあり、将軍家とつながる新たな藩屏が必要になり、御三卿が立てられることになったのです。

 

幕府から各家の当主に10万石が支給されていましたが、御三家と異なり領地は日本各地に分散、領地の実効支配は幕府に委ねられ、独自の代官所によって行われていました。御三卿は、独立した別個の「家」ではなく、将軍家(徳川宗家)の家族・身内という位置付けで、社会的にも経済的にも将軍家に大きく依存しているのが実態でした。

 

家中運営のための家臣についても、幕府から主に旗本等の幕臣が派遣されていました。その家臣の筆頭が御三卿家老です。幕府の職制としては、江戸城留守居や大番頭とともに旗本役の最高位として位置付けられた重職でした。2,0003,000石の旗本から選抜され、役料として2,000俵が支給されていました。慶応3年(1867年)からは役金として月割800両が支給されました。

 

御三卿の初代家老には、幕臣から次の通り1家2名が任じられています。〔 〕内は家老に任じられる前の職です。

 

田安徳川家:享保14年(1729年)閏9月

 森川俊勝〔西城新番頭〕

 伏屋為貞〔先手頭〕

 

一橋徳川家:享保20年(1735年)9月

 建部広次〔先手頭〕

 山本茂明〔小納戸〕

 

清水徳川家:宝暦7年(1757年)5月

 村上義方〔小納戸〕

 永井武氏〔簾中御方御用人〕

 

高見澤

 

おはようございます。今朝、5時に家を出た時には降っていなかった雨も、6時頃に職場に着いた際にはもうすでに降っており、ジメジメ感が半端なく高まっていました。パソコンの反応も悪く、瓦版を書くにも一苦労です。T芝社の製品ですが、品質がここまで落ちてしまったのかと残念でなりません。「ものづくりニッポン」はどこに行ったのでしょうか?

 

さて、本日は「大坂船手」について紹介したいと思います。前回ご紹介した江戸に置かれていた船手とは別に、大坂には「大坂船手」と呼ばれる船奉行が置かれていました。大坂船手はその職務の重要性から船手よりも格は高く、老中支配で布衣、役高は定められておらず持高のままだったようです。

 

江戸初期、西国諸国から大坂に向かう船は、今は埋め立てられていて存在していませんが、伝法川(でんぽうがわ)から逆川(さかさまがわ)を経て大坂市中に向かうようになっていました。このため江戸幕府は、元和9年(1620年)に四貫島(しかんじま)村に船奉行所を設け、こうした諸船の通行を吟味し、西国諸侯の動向を監視することにしました。この船奉行所の長官が大坂船手です。当時、伝法・四貫島は難波津に代わる大坂の要衝の津として賑わっていたそうです。現在、六軒家川(ろっけんやがわ)に架かる朝日橋のたもとに「初代大坂船奉行所跡」の碑が建てられています。その碑の字は、橋本徹氏が書いたものだとか。

 

大坂船手が支配した「大坂船手組」は、1組をもって定数とし、頭1~2名(船手)の下に与力5~6名、水主同心(かこどうしん)50名がいました。

 

大坂船手の具体的な職務は、大坂湾から木津川及び淀川への船舶の出入りの管理・掌握と、大坂湾に停泊している船舶の掌握です。そのほか、幕府の軍船管理・水兵指揮、参勤交代のため航行する西国大名の監視、琉球使節や外国使節の航行警護など、国事に係る重要な職務にも携わっていました。また、18世紀には大坂船出が小豆島(しょうどしま)・塩飽島(しあくじま)の代官を兼任することもあり、大坂における幕府の重職の一つであったことは間違いありません。船番所は四貫島のほかに、木津川口にも設置していました。

 

貞享元年(1684年)、政商として名高い川村瑞賢が旧淀川の一つである安治川(あじがわ)を開削すると、舟運も変わり、大坂へは直接安治川から出入するようになったことで、伝法川経由の船舶は大きく減少します。このため幕府は、貞享2年(1685年)に四貫島と木津川口にあった船番所を廃止し、新たに安治川と木津川の分流点に位置する九条村本田の北端に「川口船手奉行所」を置きました。元治元年(1864年)、大坂船手と大坂船奉行所は、当時軍艦奉行であった勝海舟の進言により廃止されました。

 

高見澤

 

おはようございます。東京では暑い日が続きます。今日もかなり暑くなりそうです。日本経済界の訪中代表団が今年は9月9日からと、昨年に比べ2カ月早まっています。日本側並びに中国側との調整が例年になく大変で、やっと参加案内を出すことができました。経済界の重鎮が多く参加する代表団です。これまでも仕事が忙しい中、更なる激務に追われることになります。

 

さて、本日は幕府の水軍、「船手(ふなて)」について紹介していきましょう。この船手が支配する「船手組」は、江戸幕府番方の職制で、いわば幕府の水軍という位置づけです。

 

制度として確立したのは寛永9年(1632年)で、定数は時によって増減はありますが、原則として5組が基本で、各組に頭1名、水主(かこ)同心30名以上でした。船手の頭は若年寄支配の旗本役で、役高700石、布衣、躑躅間詰と、位としてはまずのところでしょうか。水主同心の数は多いときには80名、更には130名にも上ることもあったようです。

 

船手組の職務は、平時は幕府の用船の保管で、寛永17年(1640年)~寛永19年(1642年)の3年間、頭は毎年2人ずつ交代で四国・九州の浦々の巡視を行い、寛文7年(1667年)には巡見使に加えられ、江戸から大坂に至る浦々の陸路、西海道及び山陽道の国々の海辺の巡視にあたりました。

 

文久2年(1862年)に船手組は廃止となり、船手頭は勤仕並、水主同心は軍艦奉行支配となります。

 

高見澤

 

おはようございます。昨晩、公安調査庁の調査官と懇談の機会がありました。本来であれば先週金曜日に約束していたのですが、当日の朝、突如オウム真理教の麻原彰晃こと松本智津夫以下計7名の死刑が執行されたことから、急遽アレフ関連施設の立ち入り検査実施のために駆り出されたとのこと。現場検査の責任者としてホテルに泊まりがけで任にあたり、かなりお疲れの様子でした。中国情勢の情報・意見交換の話をするはずが、前半はオウムの話題が中心になってしまいました。

 

さて、本日は、昨日紹介した外国奉行の前身となった「海防掛(かいぼうがかり)」について紹介したいと思います。

 

海防掛の正式名称は「海岸防禦御用掛(かいがんぼうぎょごようがかり)」で、幕末の対外問題処理とこれに係る国内政策の立案、更には海岸防御等を担当した江戸幕府の役職です。寛政4年(1792年)にロシアのアダム・ラクスマンがロシアとの通商を求めて来航したことがきっかけとなり、時の老中・松平定信が海防掛に任じられたのが最初です。この時はまだ臨時の措置で、常設の役職ではありませんでした。

 

その後、度重なる外国船の渡来に危機感を抱いた幕府は、弘化2年(1845年)に海防掛を常設機関として、老中の阿部正弘と牧野忠雅、若年寄の大岡忠固と本多忠徳をその職に任じます。実際の任務は勘定奉行、大目付、目付が行い、老中よりの海防策の諮問に答える形だったようです。対外問題が幕府政治の中で比重が増してくるとその役割も増大し、海防掛は単なる諮問機関から行政機関へと変貌し、開国政策を推進するようになりました。

 

阿部正弘から抜擢された岩瀬忠震、井上清直、永井尚志、水野忠徳、堀利熙の5人は、安政五カ国条約締結に向けた交渉を担当し、安政5年(1858年)の「日米修好通商条約」調印をもって海防掛は廃止、この5人は外国奉行に任じられました。

 

この海防掛にまつわるエピソードを紹介しておきましょう。天保13年(1842年)、松平定信の次男で信州松代藩の藩主である老中・真田幸貫が海防掛の兼務を命じられます。幸貫は家臣である松代藩士・佐久間象山をその顧問として抜擢しますが、実はこのことが、象山が洋学を学ぶきっかけとなったようで、そこから象山の名が次第に知られるようになったということです。

高見澤

 

 

おはようございます。西日本を中心に豪雨による被害が広がっています。東京は今のところ大雨による被害はほとんどないようですが、こうした事態はいつどこに起きても不思議ではありません。先週末にも千葉で震度5弱の地震がありました。東京も震度3を観測、揺れている時間が長く感じられました。

 

さて、前回は神奈川奉行のところで、神奈川奉行を一時期兼任していた「外国奉行」について触れましたが、本日はこの「外国奉行」について紹介したいと思います。この外国奉行ですが、幕末に新たに設けられた役職の一つで、外交を専門に担当していました。

 

安政5年(1858年)の日米修好通商条約の締結に伴い、それまで条約締結交渉に当っていた「海防掛(かいぼうがかり)」を廃して、この外国奉行が設置されることになりました。外国奉行は老中支配の旗本役で、遠国奉行の一つとする説もありますが、実際の席次は遠国奉行の上座とされています。役高は2,000石、年間の給金として300両が支給されていました。海防掛については、また改めて説明します。

 

最初に外国奉行に任じられたのは、海防掛として日米修好通商条約の締結交渉の全権を任されていた井上清直(いのうえきよなお)と岩瀬忠震(いわせただなり)に、水野忠徳(みずのただのり)、永井尚志(ながいなおゆき)、堀利熙(ほりとしひろ)を加えた5名です。この中で安政6年(1859年)に神奈川奉行を兼務することになったのは水野忠徳と堀利熙です。以後、明治元年(1868年)に幕府倒壊によって廃止されるまで外国奉行の職は続きます。

 

外国奉行の定員は不定で月番制、配下には支配組頭、支配調役、支配調役並、定役、同心があり、「外国方」という機関を形成していました。外国方の中に「御書翰掛(おんしょかんがかり)」という重要機関があり、そこには調役、通弁方、翻訳方、書物方などの役職が置かれ、外国からの文書の翻訳や外国との交渉、外国への文書作成などを行っていました。現在の外務省に相当する機関で、外国奉行は外務大臣といったところでしょうか。

 

文久2年(1862年)に外国奉行の補佐役(次席)である「外国奉行並(がいこくぶぎょうなみ)」も置かれ、年々外国奉行の数が増えていったために、それを統括するため、慶応3年(1867年)に外国事務総裁職として若年寄格の「外国惣奉行(がいこくそうぶぎょう)」が設置されます。しかし、これも翌年の幕府崩壊とともに廃止されました。

 

高見澤

 

おはようございます。今日の東京都心は朝から雨です。蒸し暑い上に、足元が濡れて決して快適とは言えない状態で出勤してきました。冷房の効いた部屋から外に出るのが、より面倒になりそうです。

 

さて、本日は遠国奉行の中で最も後の時代に設置された「神奈川奉行」について紹介したいと思います。この神奈川奉行も他の遠国奉行と同じで、老中支配の旗本役です。

 

幕末期の安政5年6月(1858年7月)、米国との間で日米修好通商条約が締結され、翌安政6年6月(1859年7月)をもって「神奈川」の開港が約束されます。同年中に英国、フランス、ロシア、オランダとも同じ内容の条約、いわゆる「安政五カ国条約」が結ばれることになりました。これによって実際には「横浜港」が開港されるのですが、このときに設置されたのが神奈川奉行です。安政6年から廃止される明治元年(1868年)までのわずか約9年間の短命でしたが、神奈川奉行の役割は極めて重要でした。

 

安政五カ国条約で神奈川の開港が定められたのですが、江戸幕府は東海道の宿場町として栄えていた神奈川湊を外国人居留地から遠ざけるために、対岸にある横浜村を「神奈川在横浜」と称して開港地と定めます。これが現在の横浜の発展の発端となった経緯です。今では横浜(中区・西区)が大きく発展していますが、江戸時代は神奈川宿(横浜市神奈川区)の方が栄えていたのです。

 

神奈川奉行に最初に任命されたのは、開港場建設の事務に当っていた外国奉行(幕末に新設された役職)の酒井忠行(さかいただゆき)、水野忠徳(みずのただのり)、村垣範正(むらがきのりまさ)、堀利熙(ほりとしひろ)、加藤則著(かとうのりあき)の5名で、当初は外国奉行との兼帯、5名のうち1~2名が輪番で出張勤務していました。その後、万延元年(1860年)に神奈川奉行は専任となり、松平康直(まつだいらやすなお)と都築峰暉(つづきみねあき)が任命され、定員は2~3名となります。神奈川奉行の役高は2,000石、役料は1,000俵でしたが、外国奉行との兼帯では役料の代わりに手当として300両が支給されていたようです。席次はその重要性から長崎奉行の上座とされ、属僚には支配組頭、調役、定役、同心、上番などが配されていました。

 

設置当初の神奈川奉行所は、青木町(横浜市神奈川区)に「会所」、戸部村宮ケ崎(横浜市西区)に「奉行役所」、横浜村(横浜市中区)に「運上所」が置かれ事務処理がなされていました。奉行役所は「戸部役所」とも呼ばれ、民政事務と外国人遊歩区域内取締りが主な任務で、運上所では領事事務、出入港手続き、関税徴収を取り扱っていました。

 

神奈川奉行所では治安維持や攘夷派による襲撃に備え、警察力・軍事力が整備されていました。幕臣から任命される士官としての「定番役(じょうばんやく)」と近隣からの徴募による歩兵の「番所附下番(ばんしょづきかばん)」とで組織されており、様式の兵制も取り入れていたようです。これらはいずれも武官でした。慶応

2年(1866年)、これら定番役と番所附下番は廃止され、関所・役所の警備は「支配役御用出役」と「役所附下番」という文官に任せられるようになり、神奈川奉行独自の軍事力はなくなりました。海外諸国との関係が安定するに従い、横浜港の警備強化の必要はなくなっていったのかもしれません。

 

高見澤

 

おはようございます。東京都心は朝から雨、全国的にも雨で、ところによっては暴風雨に注意が必要とのことです。週末にかけて雨が続き、しばらくは蒸し暑さに悩まされそうです。

 

さて、本日もまた遠国奉行で、特に港湾及び海上警固のために設置された「羽田奉行」、「新潟奉行」、「兵庫奉行」について紹介したいと思います。これらはいずれも老中支配の旗本役です。

 

先ず羽田奉行です。羽田といえば、今は「羽田空港」という空の玄関口として知られていますが、江戸時代は海防強化政策の一環として設置された「羽田御備場(はねだおそなえば)」がありました。場所は武蔵国荏原郡羽田村(現在の東京都大田区羽田)、設置時期は定かではありませんが、天保の改革(1830年~1843年)頃ではなかったかと思われます。天保14年(1843年)12月、西の丸小姓組を務めていた田中勝行が初代羽田奉行として任じられました。

 

羽田奉行は場所高1,000石、役料500俵のほか、引越拝領金200両、役所御備金300両で、下田奉行の次席、布衣、定員1名となっていました。羽田奉行の主な任務は、江戸付近の沿岸警備と外国船対策で、奉行が執務を行う仮番所、台場、火薬などを保管する仮焔硝蔵(かりえんしょうぐら)から成っていました。奉行の配下には、支配組頭1名、与力3名、与力勤方6名、与力見習・与力見習勤方4名、同心組頭10名、同心48名、足軽15名、主水頭取20名、足留主水40名がいました。

 

天保14年に設置された羽田奉行ですが、天保の改革を進めていた老中・水野忠邦が失脚すると、翌天保15年(1844年)に羽田御備場が廃止され、羽田奉行であった田中勝行は浦賀奉行へ異動となりました。

 

次は新潟奉行です。新潟奉行が越後国新潟町に設置されたのは天保14年(1843年)6月のことです。それまで新潟町は越後長岡藩領として譜代大名・牧野家の支配下にありました。牧野家10代藩主・忠雅の頃、新潟町で天保6年(1835年)と天保11年(1840年)に唐物(からもの)抜荷事件が発覚し、これを機に天保の改革の一環として天保14年に新潟町は上知されて江戸幕府の直轄領となりました。

 

初代新潟奉行に任じされたのは抜荷事件を密かに調査していた勘定吟味役の川村修就(かわかみながたか)で、役高1,000石、役料1,000俵で、佐渡奉行の次席とされていました。定員は1名で新潟町に常駐していました。主な任務は新潟町の民政と新潟港への出入船舶の監視、密貿易の取り締まり、海岸警備、海防強化でした。開国によって新潟が開港地となってからは、その重要性が増し、幕末の慶応3年(1867年)に奉行はその石高にかかわらず役金2,000両となりました。

 

そして兵庫奉行です。兵庫奉行は、元治元年(1684年)の兵庫開港に際して摂津国兵庫に設置された遠国奉行です。兵庫港は今の神戸港の一部で、昔から大輪田泊(おおわだのとまり)や兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれて、京都や奈良と日本の東西航路を結ぶ拠点として栄えてきました。

 

初代兵庫奉行に任じられたのは小笠原広業(おがさわらひろなり)で、1,000石高、役料現米600石でした。主な任務は兵庫市中の取り締まりと、開国に際しての外国貿易事務でした。しかし、慶応元年(1865年)に兵庫港の開港が中止となり翌慶応2年(1866年)に兵庫奉行は廃止されます。ところが、その翌年の慶応3年(1867年)に兵庫港が実際に開港されることになり、再び兵庫奉行が設置されました。その際のの役高は2,000石、役料1,500石とされているようです。配下には支配組頭がいました。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝は特に蒸し暑さを感じます。そういえば、日テレの看板番組「笑点」でお馴染みの桂歌丸師匠が亡くなりました。81歳ということで、私の父が昨年84歳で亡くなったことを考えれば、少し早かったのではないかと思う次第です。戦前生まれの人たちは、まだ化学物質や放射性物質による汚染が少なかったこともあり、衛生状態が良くなった現代ではそれなりに長生きできているのではないかと思います。医療が発達したとしても、どこまで人の寿命を延ばすことができるのか? もう一度、生命とは何かを考える時期に来ているのではないでしょうか。

 

さて、本日は「蝦夷奉行」、「箱館奉行(はこだてぶぎょう)」、「松前奉行」について紹介したいと思います。この3つの遠国奉行は同時に説明することで、その時代の変遷とそれぞれの奉行の役割を知ることができます。

 

豊臣秀吉、徳川家康から蝦夷地(北海道)の支配権を認められていたのは清和源氏の流れを汲む松前氏(蠣崎氏)ですが、寛政期(1789年~1801年)から文化期(1804年~1818年)に南下政策を進めるロシアに対して幕府は警戒を強め、寛政11年(1799年)に「蝦夷地御用掛(えぞちごようがかり)」を置いて東蝦夷地を仮上知(かりあげち)します。享和2年(1802年)2月に仮上知から永久上知として蝦夷地御用掛を蝦夷奉行(または「蝦夷地奉行」とも)とし、同年5月に箱館奉行と改称しました。

 

この箱館奉行も他の遠国奉行と同じように老中支配の旗本役、定員は2名で、うち1名が1年交代で箱館に駐在していました。役料は1,500俵、席次は長崎奉行の次とされていました。初代蝦夷奉行(箱館奉行)は戸川安論(とがわやすのぶ、やすとも)と羽太正養(はぶとまさやす)です。

 

蝦夷地の本格的な経営に着手した幕府は、文化4年(1807年)に松前氏を陸奥国梁川に移封し、箱館に置かれていた奉行所を松前に移して名称も「松前奉行」と改めました。松前奉行の主な職務は蝦夷地の経営・開発及び警固、和人地の民政など蝦夷地の行政、北方の国境警備、更にはアイヌの懐柔や扶育政策などでした。その後、文政4年(1821年)、松前藩の復封に伴って蝦夷地支配を松前藩に返還し、松前奉行は廃止されます。

 

幕末に至り、箱館開港に対処するため、安政元年(1854年)に箱館奉行が再び設置されることになります。翌安政2年(1855年)、松前をはじめとする蝦夷地の大部分が箱館奉行の管轄に入りました。この時の箱館奉行の定員は2~4名で、うち1名が江戸詰めでした。役高は2,000石、役料は1,500俵で、在勤中の手当金700両が支給されたようです。箱館奉行の主要な任務は蝦夷地の警護と開拓のほか、開港場箱館にかかわる通商・外交なども管掌することになり、慶応4年(1868年)の明治維新まで存続しました。

 

明治元年(1868年)の戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争の舞台となった「五稜郭」は、当初箱館山麓の港に近い宇須岸(うすけし)に置かれていた奉行所を内陸地に移転した際に造られた外堀で、元治元年(1864年)に完成しています。

 

ところでこの五稜郭について、有名なのは何といってもこの函館の五稜郭ですが、日本にある二つある五稜郭のうち、もう一つの五稜郭がどこにあるか知っていますか? 実は我が故郷の長野県佐久市(旧臼田町)にある龍岡城跡(現在の田口小学校)が同時代に建てられた五稜郭だったのです。現在でもその一部が五稜郭跡として残っていますので、興味のある方は行かれてみては如何でしょうか。

 

高見
 

おはようございます。ここ東京では暑い日が続きます。その一方、西日本では台風7号の影響で暴風や高波の危険性が高まっています。世界的にみれば、バリ島グアン山では溶岩を伴うマグマ噴火が起きています。地球規模での自然災害の発生は、ますますその頻度が増えているように思えます。

 

さて、本日は遠国奉行の「下田奉行」と「浦賀奉行」について紹介したいと思います。下田奉行、浦賀奉行共に老中支配の旗本役です。どちらも江戸湾に出入りする船舶の監視や江戸湾の海上防衛に係る重要な役割を担う役職で、時々の情勢の変化によって設置や廃止が頻繁に行われていました。

 

先ずは下田奉行について紹介します。伊豆国下田は江戸の南西に位置し、伊豆国は小国であったものの江戸を防御する自然立地をなしていたことから、特に海上交通の要衝でした。東海道箱根関を控える三島に代官陣屋が置かれるのとともに、下田には江戸/大坂間の海上交通の要所であったのです。俗に箱根の「陸の関所」に対して下田は「海の関所」としての機能を果たしていました。

 

下田奉行が設置されたのは元和2年(1616年)、初代奉行は今村重長です。「元和偃武(げんなえんぶ)」と呼ばれる太平の世になって以来、江戸幕府の中央集権化が急速に進展、城下町江戸の建設・整備も本格的な取り組みが始まり、江戸湾に出入する船舶も増えてきたのが下田奉行設置の目的でした。

 

下田奉行の主な職務は下田湊の警護、江戸湾に出入りする船舶の監視・廻船積荷改などでした。下田奉行の定員は1~2名、役高は当初1,000石、役禄1,000俵で、布衣役となっていました。配下には下田奉行支配組頭と同支配調役、与力、同心、足軽、主水頭取(かことうどり)、足留主水などが配されていました。享保5年(1720年)に下田奉行の機能が相模国浦賀番所に移り、浦賀奉行が設置されて、下田番所は一時閉鎖されました。

 

海防の危機が顕在化してきた天保13年(1842年)に再び下田奉行が設置されますが、それも弘化元年(1844年)には再度閉鎖されます。嘉永7年(1854年)3月に日米和親条約(神奈川条約)の締結により下田が開港、それに伴って下田奉行が三度配置されました。幕末には外交上の重要な出張機関として外交事務を司っていたことから下田奉行の重要性が増し、役高も2,000石と加増、諸大夫となりました。この時期、下田奉行と浦賀奉行が併存していたわけです。

 

その後、安政5年(1855年)、日米修好通商条約の締結により横浜が開港されると、翌安政6年(1856年)に下田開港場は閉鎖、そして万延元年(1860年)に下田奉行所も廃止されることになりました。

 

次に浦賀奉行ですが、前述した通り、享保5年(1720年)に下田番所が閉鎖され、下田奉行が浦賀番所に転置されて浦賀奉行として従来の下田奉行の職務を引き継ぎます。初代浦賀奉行を務めたのは下田奉行から転じた堀利雄です。浦賀奉行は江戸湾の出入り船舶の監視・積荷改めのほか、相模国三浦郡内の天領(幕府領)と浦賀の町政支配、江戸湾防備の職務も管掌していました。

 

浦賀奉行の定員は1~2名、役高は1,000石、役料500俵で、配下に与力12騎、同心50人が配され、浦賀の廻船問屋が付属していました。当初、平時は属僚を浦賀に派遣して職務の遂行にあたらせ、浦賀奉行は江戸で執務を行っていました。天保8年(1837年)、「モリソン号事件」以降、浦賀奉行の任務は重要性を増し、嘉永6年(1853年)以降、石高は2,000石となり、外国との交渉が恒常的となる文久2年(1862年)からは奉行も浦賀に駐在するようになりました。安政年間(1854年~1860年)頃から要職としての格式も高くなって、遠国奉行首座の長崎奉行よりも上席に列することになりました。

 

おはようございます。昨日から7月、6月中に関東では梅雨が明けるという前代未聞の事態。日本各地で比較的大きな地震が続き、ここ東京も安心という状態ではないようです。沖縄地方では台風が接近しており暴風雨に注意が必要な一方、東京は今日も暑くなりそうです。

 

さて、本日は遠国奉行の中でも比較的早い時期に設置された「大津奉行」と「清水奉行」について紹介していきたいと思います。これらはいずれも他の遠国奉行と同じように老中支配の旗本役です。

 

先ずは大津奉行についてです。近江国大津は、天智天皇が「近江大津宮」に都を置いた(667年)こともある古き都です。琵琶湖の畔にあることから港町として栄え、さらに琵琶湖の東西の街道が合流する地点でもあったことから、昔から大津宿として東海道の重要な拠点でもありました。

 

室町時代、六角氏の支配下にあった天文2年(1534年)に六角定頼が奉行所を設置し、駒井清宗を大津奉行に任じたのが始まりとされていますが定かではありません。清宗はその後「大津氏」を名乗って子孫が代々大津奉行を継承しますが、六角氏が滅亡することで、大津は織田信長の支配下に置かれます。信長は大津に代官を派遣して、大津を支配させていました。

 

一方、比叡山焼き討ちのあった元亀2年(1571年)、信長は明智光秀に命じて近江滋賀郡坂本(大津市)に坂本城を建てます。京及び比叡山の抑えと、琵琶湖の守りという意味合いがあったようです。信長の死後、天正14年(1586年)に坂本城は廃城となり、浜大津(大津市)に大津城が建てられます。しかし慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いと時を同じくして「大津城の戦い」があり、大津城下は焼失、翌慶長6年に大津城も廃城となりました。

 

慶長5年、大津を支配下に置いた徳川家康は、摂津国の豪商・末吉勘兵衛を大津奉行に任じ、翌慶長6年に大久保長安を大津代官に任命して、奉行と代官の役割を分けました。その後、元和元年(1615年)に大津奉行が遠国奉行の一つとされ、大津代官をその指揮下として置くことになります。しかし、享保7年(1722年)に大津奉行と大津代官は京都町奉行所に統合され、大津代官所は廃止されました。明和9年(1772年)に大津代官所が復活、大津代官として石原氏が6代にわたって大津代官職を世襲していたようです。

 

次に清水奉行です。駿河国清水は天然の良港を有していることから、古くから海軍中継地として発展してきました。戦国時代、清水は今川氏の勢力下でしたが、武田氏が支配するようになると、武田軍の水軍基地として利用されるようになります。

 

江戸時代には、清水湊として西国の赤穂の塩などを江戸に運ぶ中継基地としての役割を担うとともに、富士川舟運を通じた信濃・甲斐方面からの廻米輸送基地として栄えました。また、旧清水市の中心部「江尻」は東海道の「江尻宿」が置かれ、重要な宿場町でもありました。

 

この重要な清水に置かれたのが清水奉行です。元和7年(1621年)に設置され、配下として主水50人が配され、主な任務は駿河湾の監視や警備でした。しかし、元禄9年(1696年)に清水奉行の職務は駿府町奉行に引き継がれ、清水奉行は廃止となりました。

 

高見澤

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